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プロジェクトとしての☆ニコニコオーケストラ☆(2/2)


テキスト:山内泰

(1/2からのつづき)

〈自発的に演奏されている〉(②)というのは、このオーケストラが、自主的に組織され運営されていることだけを意味しない。ニコオケでは個別の奏者の演奏が、優れて自発性に富んでいる。それは、卒業式などで君が代を歌わされるのとは正反対のあり方だ。

体育会的なノリで規律を与えられる中高生吹奏楽とも違う。意味やニュアンスなどいまいち把握されないままに演奏されることの多い、日本のプロオケによるクラシック演奏とも違う。ニコオケでは、それぞれの奏者が、活き活きと、あらゆるフレーズを、自分の音楽として演奏している。というのも、そこで奏でられるのは、上から教養や規律として与えられた音楽ではなく、自分達のコミュニティの中から醸成された音楽なのだから。

ニコオケを聴いていると、音楽が、どうして〈合奏〉という形態を求めるのか、そしてそもそも〈合奏〉とはどのようなものだったのか、いろいろと感じることができる。合奏は、とくにオーケストラは、このように自発的な運動として成り立つべきものなのだ。

自発性という点で、個別の奏者にも注目すべきだろう。日本の音楽教育の水準であれば、学生時代に数年間、部活などで楽器に関われば、ある程度は演奏できるようになるはずだ。また子供の頃から習い事としてピアノなどをやっている人であれば、ある程度は弾けるようになっている。そこで音楽と幸せな出会い方をする人もいるだろうし、子供の頃は嫌だったがやっていてよかった、という人もいるだろう。

だがその影には、楽器を習ったことはあるが、今では演奏する気もおきないという人も多くいる。実際日本には、習い事や部活を通じて、演奏する技術を持つ人は多数いる。にもかかわらず、その後の生活において、演奏する機会がないどころか、そもそも演奏するモチベーションもない、という人は少なくない。ピアノなど、その筆頭だろう。子供時代に楽器に親しむことが、トラウマというほどではないにせよ、ネガティヴな経験になっている人は多い。そのせいでクラシックをほとんど聴かなくなる人もいれば、逆にクラシックを至上とし他の音楽を軽視する人もいる。いずれにせよ不幸としか言いようがない。そこには自己解放のための演奏技術が、自己抑圧として働くという倒錯した状況がある。とりわけ日本で顕著らしいこの状況は、よろしくない教条主義による弊害以外の何ものでもないだろう。

実際にニコオケに参加した人のブログ(→こことか)を読んでみる。この人は、中学時代に部活で吹奏をやったが、高校以降は次第に楽器に触れることもなくなっていったという。ところが、ニコオケの活動を知り、『ニコニコ動画流星群』なら演奏したいと、数年ぶりに楽器を取りに実家に帰り、猛烈に練習し、本番に参加したという。そこに、強制の契機は一ミリもない。自分の演奏したい音楽があり、それを演奏する団体があり、そしてそこで演奏された音楽を聴く人が多数いる。その全てが自発的になされており、このプロセスを通じて、打ち捨てられかけた演奏技術が見事に回復されている。このことの意義は、どれほど強調しても足りない。

クラシックをはじめとする西洋音楽の文化の根底にある思想は〈卓越〉である。卓越した作曲家の作品を、卓越した演奏技術を持つ個人が演奏して、その真価が立ち現れる。だから楽譜を勝手に改変してはいけないし、演奏を手拍子などで邪魔してはいけないのだ。卓越した個人を頂点とするヒエラルキー文化は、そこから打ち捨てられる数多の才能を糧としながら、憧憬のまなざしを受けて光り輝く。西洋本場のオケには日本のオケが、プロオケにはアマチュアオケが、ヒエラルキーの序列に応じて憧憬のまなざしを向ける。まなざしを向けるのは、打ち捨てられ、断片化した膨大な数の才能である。

だが指をくわえて見ているだけではない。打ち捨てられた才能は、卓越文化とは全く別の連関を取ろうとする。同人活動はその典型で、ニコオケもまたそんな活動の一つだろう。もっとも同人活動は、卓越文化から見れば、取るに足らないものとされる。だが、今の日本で、卓越文化よりも、遙かに多くのことを、同人活動が成し遂げるのだとしたら。日本のプロオケの演奏するクラシックよりも、ニコオケの演奏する『ニコニコ動画流星群』の方が、はるかに多くの人々に注目され、感銘を与えるのだとしたら。卓越した個人(サブジェクト)ではなく、匿名の断片の織り成す集積から自発的に形成されたプロジェクトとして、ニコオケは、卓越から零れ落ちた才能や技術を救済する可能性を、見事に示してくれている。


08/09/23 23:08 | コメント(2) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

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コメント(2)

文章中で紹介しておけばよかったのですが、ニコニコオケ版『ニコニコ動画流星群』の編曲と指揮を担当している人のブログがありました。

http://www6.atpages.jp/kohmei/

この方も音大とかではなくて、大学4年間の吹奏楽部で、独学でいろいろと学ばれたようです。最初の「時報」から「star rise」のあたり『ハリウッド万歳』を意識しているetc、流星群の編曲について、いろいろと書かれています。

卓越文化に対して同人活動がある、というのはよく分かる。表現の結果が示す卓越性によって、ではなくて、表現することの喜びが伝えることによって、人を感動させる表現があるよね。ドナルドの書いたニコオケもそのひとつだと思った。

でも気になるのはそうした同人活動に対して、どういう評価をするのか、どういう批評をするのかってこと。もっと言えば外部の人たちは、どういうスタンスで同人活動と係り合えるのか、ってことだね。

たぶん、批評というのは卓越文化の中でつちかわれた「作法」なんだと思う。客観的に見て表現のされ方やアクチュアリティーについていろいろと言う。実際にうまくいくかどうかはともかく、卓越文化の中の「批評」は一応は外部に開かれてはいると思う。

しかし、同人活動のポイントが「自発的に形成されたプロジェクト」にあるんなら、「批評」は出来るのか、って思う。同人活動に対しては、「自発的だから良い」「楽しんでいたから良い」といった程度のことしか言えないのかも。

youtubeとかニコニコ動画が出てきて、今後もっと簡単にニコオケみたいな同人活動は増えてくるだろうなぁ。そうなったときにそうした表現をどのように言葉にしてゆくのかってのは問題だろうね。きっとその時に使われる言葉は従来の「批評」とは違ったものになるだろう。

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