まず、結論から言っておこう。その魅力とは、キャラクターが<理解しあうことの断念>を決断するプロセスが丹念に描かれているところだ。普通、不透明な他者を<理解する>ことは、複雑性に満ちたコミュニケーションのプロセスにとって、希望のように思える。だからこそ、多くの表現が分かり合うことのできないジレンマを、葛藤を描いているのでないか。もちろん彼女も例外ではない。そうした次元を放棄などしていない。だが岡田はそこから一歩踏み越えようとする。自分を取り巻く様々な関係。それがいかに自らを支え、<理解し合おう>という幸福な連関を一瞬結ぼうとも、それは永遠のものではないのだと。幸福であった関係の終わりを自ら選び取らねばならない、そんなキャラクターたちの苦悩を岡田は、とにかく美しく、優しい眼差しで、残酷に描く。つまり、純粋なキャラクター同士の関係性がもたらす享楽が、岡田の作品においては、最終的に断念されるのである。けれども、その断念によってこそ、切実な他者との関係の終わりの中にこそ、わずかばかりの可能性がある。そう岡田は言いたいのではないか。以下では、岡田がシリーズ構成・脚本を担当した『とらドラ』を中心に、なぜ彼女がそれほどまでに<理解し合おうことの断念>を描くのかを論ずる。
(以下は、『とらドラ』に関するネタバレを含む。岡田論のような体裁を取っているが、実は、近年の岡田の手がけた作品しか見ていない、不届きものの戯言である。また、原作と岡田のオリジナル部分、岡田とその他のスタッフの創作の部分を混同している。こんなレビューなど読まず、直接作品にあたってもらう方が本望であるが、奇特な方はどうぞお読み下さいませ。)
竹宮ゆゆこ原作のアニメ版『とらドラ』の簡単なあらすじを説明しよう。目つきの悪さから不良と誤解されやすい高校生・高須竜二は、ひょんなことから「手乗りタイガー」というあだ名を持つ同級生の逢坂大河と知り合う。お互いの恋の相手が自分の友人であることを知った二人は、共同戦線を張り、徐々に恋の相手との距離を縮めていく。だが、幾多の紆余曲折の結果、二人は自分の真の気持ちに気づき、向き合っていく過程を描いた「超弩級ラブコメ」、である。まあ、多くの方がよくある展開じゃん!と思われただろう。そう。実によくある話だ。ただし、『とらドラ』においては、そうしたよくある展開の中に、擬似家族、インナーマザー、共依存、etc…といった親密圏をめぐる数々のモティーフがさりげなく織り込まれているのである。その中でも、ここで注目したいのは、『とらドラ』で描写された<ゆるやかな擬似共同体>がもつ計り知れない魅力とその危うさである。
では、ここでいう<ゆるやかな擬似共同体>とは何か。まずは、ひとりの人間を所有し、<私>という存在の全肯定を志向する強固なつながりでなく、非常に曖昧で、流動的なつながりであるということ。そして、旧来の経済的、地域社会的な共同体ではなく、偶然に出会った個人同士がある限られた時間の中で、関係性とその積み重ねへの信頼で成立するつながりであるということ。こうした関係のあり方が、さしおり<ゆるやかな擬似共同体>と言えるだろう。とはいっても、最近のドラマや映画、アニメなど様々な表現において、擬似共同体をモティーフした作品は乱立している。それゆえ、少々インフレ気味で、げんなりもする。けれども、なぜ今、そうした<ゆるやかな擬似共同体>が多用されているのか。
もちろん、答えは簡単だ。そうした関係が私たちにとって魅力的に感じられるからである。<きみとぼく>という二者関係の中で、特別な存在からの全承認をめぐる物語。肥大した恋愛信仰。常にフレキシブルに<自分>を演出し、状況によって使い分けなければならないという過剰なコミュニケーション志向。所属する共同体の中での立ち位置を巡る闘争。こうした関係のあり方への疑問が、まったく別のあり方を求めたのだ。その結果が<ゆるやかな擬似共同体>であったといえる。
ただし、<ゆるやかな擬似共同体>は万能ではない。というのも、当事者同士が常に自分と他者との距離に対して自覚的であらねばならない関係のあり方だからである。それに加えて、たとえ無意識的であったとしても、当事者同士が適切な距離間に合意し、満足していることが前提となる。なぜなら、単に互いの距離に無自覚であった場合、容易に他者をコントロールしたい、所有したいという強固な結びつきを志向してしまうからだ。さらに、三者以上の関係は、そもそも仲違いや競合といった不安定な要因をその内に孕んでもいる。こうしてみると<ゆるやかな擬似共同体>の成立と維持がいかに困難なことかが理解できるだろう。
それゆえに<ゆるやかな擬似共同体>は、“曖昧”で、“流動的”、“限られた時間”といった限定的制約が課せられているのだ。関係に終わりがあることを常に自覚(無意識であったとしても終わりを受け入れることができる)しておかなければならない。それを自覚しつつ、仮に長期的な関係の持続が可能であるならば、とりわけ当事者同士が<やるべきこと>と<やってはいけないこと>を判断する高度なバランス感覚を持ち合わせ、絶妙な距離間を保ち続ける必要がある。言うまでもなく、これは非常に困難なことだ。あるいはこうした条件なら可能なのかもしれない。たとえば、そう、メンバー内の誰かが自分の気持ちを抑圧するとか、愛情を口に出さずにおくとか…。(その2へつづく)
岡田麿里
近年、注目されているアニメ脚本家。代表作に『シムーン』、『TRUE TEARS』 など。
インナーマザー
直接的、あるいは無意識的な「母」の呪縛を指す。母と子関係は、密着したものになりやすく、あくまで心理的な距離感であるために物理的に離れていたとしても、「母」的なものが、子供の内面に強く作用する場合がある。そうした心理を内面化した子供は、一見自立しているようにみえながら、絶えず「母」的なものを準拠にして行動してしまうようになる。精神分析のターム。
竹宮ゆゆこ
小説家。ライトノベル作家。代表作に『とらドラ』。『わたしたちの田村くん』など。
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