テキスト : 笹野正和
1.メディアの近似性と言葉
我々の周りには様々な出来事、つまり事象がある。事象は多種多様である。従って、それを言い表すとされる言葉も多種多様である。ところが、実際は言葉は正確に事象を言い表していない。というのも、そもそも事象と言葉は次元が違うからである。言い換えればメディアが違う。メディアが違えば当然その表現内容も違ってくる。音楽と絵画では表現内容が全く違うのと同じである。そしてそれは言葉にもあてはまる。にもかかわらず、異なるメディア同士には、その内容に何かしらの相似点が生じるときがある。音楽において表現主義的作品があるように、絵画において表現主義的といえる作品が生まれる。二つの事象は異なるものだが、他の事象たちよりは近い。言葉にもまた他のメディアとの近さと遠さがある。そして我々はなるべくある事象の近くに近寄るために言葉を吟味する。
2.言葉の本懐
言葉は特に西洋文化において特権的な位置を占めている。その源泉とされる聖書のある箇所では、「初めに言葉ありき」と書かれている。さらには「万物は言葉によって成った。言葉によらず成ったものはなかった」とまで言われている。言い換えるなら、言葉はあらゆる表現メディアに先立つメディアということになる。しかしそれは言葉がすべてという意味ではないであろう。われわれの見るところ、言葉が卓越している点は、それが他のあらゆるメディアを、やろうと思えばいくらでも精緻かつ簡潔に説明できるからである。こうした言葉というメディアの卓越性こそが、「我思う、ゆえに我あり」と述べ、近代的人間像・世界観を創設したデカルトをして、「明晰判明」な事象だけが真であり、あらゆる事象は最小限の要素にまで「分析」し、そのあと小さい要素を順序立てて「総合」していく近代的方法論を発明せしめたのである。そうすることで言葉は、他の事象に対する近似値を無限に高めていくことができる。こうした営みこそが、言葉によって紡がれる「論理」である。論理によって、人は他のメディアについて可能な限り精細な説明を加え、理解することができる。そのように様々なメディアの近似値を求めて、はるか昔から、たとえばルネサンスやバロックやロマン主義、はたまたシュールレアリスムからダダに至るまで様々な言葉が開発されてきた。そのように人は、個々の事象になるべく肉薄する表現を求めて、趣向を凝らして言葉をこね回してきたのである。
3.言葉のデザイン
我々は、このような言葉に対する営為を、「言葉のデザイン」と呼ぶことにしよう。なぜなら我々の考えでは、デザインとは最も簡潔に、かつ最も適切に、物事を組織・構成することだからである。デザインは、あらゆるものをデザインする。そこでは、ただ形をもった物だけでなく、あらゆるシステム、あらゆるコンセプト、あらゆる事象の関係性が、徹底的に順序立てられ、システマティックに組み上げられる。そしてそれは時には一つのメディアに収まらず、複数のメディアに渡って行われる。一つの建築(例えばショッピングモール)をとっても、その中に置かれる備品から、その壁にかかる絵画、そこで流れる音楽、その建築を含む交通・都市計画、果てはその建築が関わる経済・流通システムから、その建築によって変化する地域住民の生活など、有形無形の様々なメディアが考え抜かれ、デザインされている。そしてよいデザインにおいては、それが関わる物事が細部に至るまで徹底的に分析・検討され、個々の要素が手際よく配置され、個々の関係性が巧みに結びつけられている。そうしたあり方はまさしく論理的である。従って、よいデザインとは巧みな論理を持つものである。そうだとすれば言葉におけるデザインとは、言葉というメディアにおいて論理を駆使して、他のメディアにおける事象を徹底的に分析・説明するということである。
4.言葉の結晶としてのアート
もしかすると人は、なぜこれを言葉のアートと言わないのか、と疑問に抱くかもしれない。なぜなら、アートもまたあらゆる事象について、その適切な構成をたゆみなく究めようとしている。にもかかわらず、なぜ言葉のデザインと言うのかといえば、それが原理的に多くの他者、時には考え方も文化も風習も全く異なる他者への流通・普及を目指しているからである。見るところ、アートとは一つの完結物、完成品である。つまり物理的にであれ、作者の意図といった精神的な意味であれ、それ以上に変容することを原則的に求めない。それゆえ純然たるアート作品には、基本的にその作品や作り手に敬意を払い、共感する理解者が集まる。従って、言葉のアートと言うなら、それは話し手(書き手)の意図通りに言説(言葉の構成・連なり)の意味が理解され、言説自体は何の変更も被らずに伝わっていく構図になる。つまりひたすら作者の意図通りに受け取り、勝手に解釈しないことが要求される。アート的言説は精巧な一品物・オリジナルであり、その極度の精緻さゆえに他を圧して輝きを放つ。それは一つの結晶、一つの到達点である。
5.そして言葉は巡る
ところがデザインは他者と相対している。他者とは、すなわち各自が自立的に思考し、見聞きした作品をめいめいで解釈する者である。つまり他者は、実際に利用する製品の使い方やコンセプトを原理的に、時には本人も気づかぬ間に改変する。つまり、どのように使うか、どのように解釈するかは作り手ではなく、受け手である他者に委ねられている。デザインはこうした他者たちのために作られており、従って他者による改変・変容を甘んじて受け入れねばならない。これを言葉の次元に置き換えれば、書き手によってどれほど練り上げられた言説も、思いもよらぬ仕方で、受け手によって読み換えられてしまう。苦心して作り上げた言説を覆され、時に意図とは全く逆の意味付けをされてしまうのは、一見心苦しいことだろう。しかしよき言葉のデザイナーは、そうした意想外の改変を恐れない。なんとなれば、いかに形を変えようとも多くの他者たちの下で流通すること自体が、デザインの本懐だからである。それどころか、よきデザイナーは、もしその改変が当人にとってもよりよいと思えるのであれば、なおさらその改変・変容を歓迎するのである。なぜなら、このデザイナーにとって無上の喜びは、より豊かな表現を新しく生み出し、より多くの人に伝えられたという一点にあるのだから。従って、あらゆるデザインがそうであるように、言葉のデザインもまた、作り手と受け手、書き手と読み手、自己と他者の共同作業である。その意味では、事象の周りで適切な言葉を構築しようと苦闘する者は、みな言葉のデザイナーである。そしてそれらの者たちによって、言説の連鎖が縷々として紡がれ、言葉は様々な事象に近づこうと、事象の周りで無限の運動を始める。それは到達点のない、終わりなき道である。この終わりなき道を歩む者たちに、この文言を捧げよう。すなわち「もっと言葉を」と。
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