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別冊ドネルモ 《ぼくたちの志村貴子》 TalkAround part1 |
プレゼン:山内泰/ファシリテータ:宮田智史
構成:山内泰
別冊ドネルモ トークイベント《ぼくたちの志村貴子》(9/20@トラベルカフェ)のトークの模様です。
イベント当日の模様は、フォトレビューにアップされております。(→こちら) 併せてご参照くださいませ。
part1では、山内泰(ドネルモ・ディレクター)によるプレゼン内容を中心に、再構成してお届けします。
山内
山内です。今回、志村さんを《別冊ドネルモ》で扱うというので、改めて作品を読み返してみました。で、やっぱり、面白い。でも、どう面白いのか、なんかうまく説明できないんですよね。でも、今日はそこを無理やり(笑)言葉にしてですね、はい。そういうことで、よろしくお願いいたします。
イベントのチラシにも宮田君が書いてくれてましたが、志村さんといえば、例えば「思春期の少年少女の心の機微を繊細に描いた」とか言われたりしてて、たしかに、そういった面ももちろんあります。更には、いわゆる〈大人〉に対する嫌悪感・失望感と、成熟していない子供や〈ふがいない人〉に対するシンパシーなんかは、どの作品にも共通してますよね。
でも、なにより、いわゆるメジャーからちょっと外れてしまった人々が、メジャーどころとは違った仕方で、どういうつながりをとりうるのか、とても丁寧にフォローしているように僕は思います。そういうセーフティーネットが「あるんだ」っていうことを、さりげなく、でもしっかりと描いている。その描き方とまなざしが、いいなあ、と。そんなあたりのことを、今日は、『放浪息子』を中心に、お話したいと思います。
山内
お手元に放浪息子の登場人物紹介があるかと思いますので、未読の方いらしたら、そちらをご参照ください。
簡単に作品紹介を。『放浪息子』は、「男の子になりたい女の子」高槻さんと、「女の子になりたい男の子」ニトリ君、そして彼・彼女らを取り巻く登場人物たちによる群像劇です。小学5年生から描き始めて、今中学二年生まで来ています。
そうした、ちょっとニッチな趣味をもった登場人物たちが、作品内では、悶々と悩みながらも、お互いを支えあうようにしているわけです。まあ「良い友達に恵まれている」ということなのですが、面白いのは、その「友達」関係というのが、当事者たちにとっては必ずしもそうではない、ということです。
つまり、傍から見ている僕たち読者から見た場合に、そこに友達関係が「あたかも成り立っているように」見える。これは、実際にはディスコミュニケーションなのに、そこにあたかもコミュニケーションが成り立っているように見える、ということです。
で、僕が思うに、こうしたすれ違いやズレを「コミュニケーション」として捉えるモデルが、今、かなり魅力的なんじゃないかな、と。このことを説明するために、ちょっと大風呂敷ではありますが、ここ最近のサブカルの動向を大雑把にまとめて、その上で放浪息子の話をしたいと思います。
山内
ここ最近のサブカルの動向、ということで、ここでは、宇野さんの『ゼロ年代の想像力』のパラダイムを持ち出しましょう。とても明快な枠組みで2000年代のサブカルの動向が語られていて、それは、簡単に言えば、「セカイ系からの脱却」です。
じゃあセカイ系とは何か。それは、「私を全肯定して!」という欲求だとされます。しかも日常にいるそこらへんの人が肯定してくれても意味ないのがセカイ系のポイントで、「特別な私」を完璧に理解して承認してくれる、これまた特別な存在だけが心の支えなのだ、と。具体的には、他の誰でもない「君と僕」という二人だけの濃密な関係だったり、逆に誰にも自分の特別さを承認されなくていじける、といった物語になるようです。
宮田
代表的な作品として、エヴァとかですか?
山内
エヴァンゲリオンは、話の全体としては、脱セカイ系が目指されてはいます。が、〈お父さんに承認されない自分〉を誰も受けれてくれないっていう悩みを悶々と抱え込むシンジ君は、典型的なセカイ系なのでしょう。二人だけの濃密な関係ってことでは『失楽園』とか、セカイ系の典型のように思えますね。
宮田
でも、「私を認めて!」っていう欲求とか、認めてくれる人や世界観に没入してしまうのは、ごく普通のことじゃないですか?
山内
うん。普通。でも、自分の経験と照らしてもそうなんですが、とりわけ90年代末は、なんか日本中のほとんどが、セカイ系的な「私を受け入れて!」欲求に駆られていたんですよ。世界には自分ひとりしかいない、寂しいなあ、と(笑)。だから、自分を支えてくれる何かに、過剰にすがっちゃうんですよ。
じゃあ、セカイ系で何が問題なんだ、と。宇野さんによれば、それは、自分だけを支えてくれる誰かの獲得を優先するあまり、何かしらの暴力を生み出してしまうからだ、と。これはけっこうな問題で、例えば僕が毎月コンビニで読んでる『小悪魔アゲハ』とか、描写がひどいと言われてる携帯小説でも、デートDVの話はやけにリアルに語られている。恋愛事情のみならず、お正月の派遣村みたく、格差社会の底辺層や社会的弱者への異様に厳しい社会的な反応の根っこにも、セカイ系的な考え方があるのだろう、と思ったりします。自分を支えてくれる何かとの濃密な関係にハマる一方で、自分を受け入れない、気に入らないものを猛烈に排除する。ギスギスした状況です。
でもそれだとあまりに窮屈で生きにくいよね、と。そこで、こうした状況をなるべく回避するためのモデルを提案したのが、「ゼロ年代の想像力」だったわけです。
ゼロ年代の想像力が提案するのは、「みんなとのゆるやかなコミュニケーション」です。そこでは、ごく普通の人と一見なんてことないコミュニケーションを重ねる中で、お互いに承認しあい支えあう。そんなモデルが、さまざまなかたちで語られています。
代表例、いくつかありますが、ここではよしながふみの『フラワーオブライフ』をあげましょう。白血病だった男子高校生の高校生活を描いたマンガです。このマンガはコミュニケーションの教科書みたいになっていて、これこれこういう場合はこう対応したら、ギスギスしなくてすむのよ、で、案外それって楽しいでしょ、とよしながさんが丁寧にレクチャーしてくれてるようなマンガです。
DVと紙一重の「君と僕」の濃密な関係性から、みんなとのゆるやかなコミュニケーションへ。擬似的な家族や共同体をテーマにした作品は、今かなり流行ってます。
宮田
昨年やってたドラマの「ラスト・フレンズ」とか、まさにそれですよね。
山内
あ、そうなんだ。アニメでも邦画でも、そういうのはとても多いし、掘北マキとか出てるdocomoのCMも、アパートでの共同生活のシチュエーションですよね。ちょっと食傷気味なくらい(笑)。まあでも、こうした「ゆるやかなコミュニケーション」の積み重ねこそ、セカイ系からの脱却を促す処方箋なのだ、というわけです。
でも、「ゆるやかなコミュニケーション」は万能薬ではなくて、あくまでセカイ系の濃密なコミュニケーションにこりごりな人々にとって、特効薬になるという話です。だから、「ゆるやかにコミュニケーション」するためには、自分と他の誰かとの距離感に常に自覚的でなければいけないし、「ドロドロしない」といったマナーと自己抑制に基づいた、「大人」のスキルが求められるわけです。
となると、これはなかなかに難しいぞ、と。特に最近では、そうした難しさゆえに「コミュニケーション」が破綻してしまう話も、多くなりました。その見事な例が、去年ですけど、アニメで大人気となった『とらどら』ですね。『とらどら』とこの辺の話は、ファシリテータの宮田君がとてもわかりやすくて面白いレビューをドネルモに投稿しています→(こちら)。興味ある方は、是非ご覧になってください。
山内
ちょっと前置きが長くなりました。では、こうした最近のサブカルの流行と比べてみて、そこで志村さんの放浪息子は、どうかな、と。
まずセカイ系ではない。「女の子になりたい男の子」っていうのは、自意識としてはかなり特別でしょう。周囲に容易く理解されにくいから、なおさら、そんな自分の特別さをわかってくれる誰かにすがり、そこで自分を保とうとするのが、セカイ系的な物語としては定石です。でも、『放浪息子』のニトリ君たちはそんなことはしません。
じゃあ「誰もわかってくれない」っていじけるかっていうと、それもない。それなら、最近流行りの、大人びた「ゆるやかなコミュニケーション」をしてるかというと、これがまた、そうでもないと思うのです。
例えば主人公のニトリ君を例に出しましょう。8,9巻あたり読んでいない人はごめんなさい、今から盛大なネタバレになります。
ニトリ君には、自分の女装趣味を認めてくれている高槻さんや千葉さんやマコちゃんといった友達がたくさんいます。彼女のアンナちゃんも、女装したニトリ君とデートしてくれる。その意味でニトリ君は、いろいろあるんだけど、まあ理解ある友達の中で、女装する自分を承認されて、支えられている。8巻途中まではそうでした。
でも8巻でニトリ君は、友達の中だけで女装するに飽きたらず、女装のまま学校にいっちゃう。女装したい自分をもっと広く承認してほしい、というわけです。で、学校側は、男装してきた女子にはお咎めなしなのに、女装してきたニトリ君を保健室に連れて行き、お母さんを呼んで早退させてしまう。
宮田
8巻、ちょうど早退のとこで終わりましたよね。えー、みたいな(笑)。
山内
そうそう。でね、〈みんなとのゆるやかなコミュニケーション〉を優先する見方からすれば、この二トリ君の振る舞いは〈成熟した大人〉の対応ではないってことになるんだと思います。〈成熟した大人〉からすれば、ニトリ君のやったことは、子供っぽいわがままだ、だから我慢しろ、と。女装みたいなニッチな趣味は友達づきあいの中で満たしておけばいいのだ、公共の場に持ち込むな、と。そうしたほうが、自分も他人も不快にならないのだ、と。
宮田
よくないですね(苦笑)。
ここで面白いのは、ニトリ君の女装での登校を、優しい友達たちは、基本的にやめたほうがいいと反対してた、というとこです。たしかに普通の感覚からしたら、「やめたほうがいいんじゃ?」と言うのが友達なのかもしれません。でもそれは、ともするとさっきの「大人」の考え方と一緒なんです。
それに対して、ニトリ君の女装欲求をずるずる引き出し、学校へと駆り立てたのは、実は意地悪な土居君の発言「スゲーおまえマジかわいいな、おまえこれで学校来いよ」(8巻)でした。ここは、とても大事なポイントだと思います。というのも、土居君のこの発言には、ニトリ君への思いやりなんかなくて、純粋な好奇心とリビドーしかない。でもそれがニトリ君を突き動かす。なんともディスコミュニケーションなんです。
宮田
8巻の土居君、「すっげー美人だ」ってことで、おかまのお姉さん(ユキさん)に興味持ったり、いかにも思春期男子っぽい欲望丸出しですよね。でも、そんな純粋な好奇心や下心が、女装とかおかまといった、トランスジェンダーのハードルを、ぽんと飛び越えるきっかけにもなる、というところでしょうか。
さて、早退させられた日から学校に行かなくなってしまったニトリ君。9巻では友達たちがいろいろと慰めてくれます。でも、これまでと違って、新たに誰よりもニトリ君の支えになっている「ように見える」のが、フミヤ君だと僕は思うんです。フミヤ君、基本的にはニトリ君の女装を馬鹿にするイヤなやつだったんですが、9巻ではちょっと違う観点から扱われてます。
ふさぎこんでいるニトリ君に対して、フミヤ君は「自分も女装をするし、女の子の服着て外出とか当たり前」という〈嘘〉をつきます。でもこの嘘に、ニトリ君はかなり支えられる。フミヤ君は、基本的には意地悪くニトリ君をからかおうと思っているみたいなのですが、ニトリ君が勘違い気味の対応をするので、フミヤ君的はどうも調子がくるってしまう。そんなすれ違いまくりのコミュニケーションが、ここではニトリ君の支えになっているんだな、と僕は読んでいます。
こうしたすれ違いや勘違いに基づくディスコミュニケーションは、志村さんの場合、枚挙に暇がありません。どう見ても嫌われているのに、果敢に千葉さんに接していくちーちゃん(更科さん)なんて、そうしたディスコミュニケーションの典型的なキャラでしょう。あ、そうか、ちーちゃんのこと、いっぱい話せばよかった・・・(笑)。
このように、放浪息子の作品内世界では、登場人物たちはすれ違っているし、分かり合えてもいない、ディスコミュニケーションなんです。だけれども、その様子が、傍からみている僕たちにとってはあたかも、コミュニケーションにみえる。いや、コミュニケーションっていうよりも、支えあっている。ディスコミュニケーションが、トータルで見たらお互いをフォローしあってて、絶妙なセーフティーネットを形成している。そういう風に、志村さんは、『放浪息子』の登場人物たちを描いてるし、見守っているんじゃないか、と思います。
山内
そして僕は、志村さんのそういうまなざしに猛烈に感銘を受けるのです。これは、現実の話でもそうだと思うんですよ。どうにもすれ違ってわかりあえないけれども、でもそうしたすれ違いも、誰かどっかから観ていて、その人から観たら何かしらポジティヴなコミュニケーションになっているっていう・・・。そういうことってわりとあるんだよ、奇跡なんかじゃない、と、志村さんのマンガのいろんなページが語ってるように思うんです。志村さん、優しいなあ、と(笑)。
そうやって、他人とのすれ違いやズレをポジティヴに勘違いして、受け入れてやっていく、そんな〈コミュニケーション〉、もとい〈支えあい〉のモデルを、志村さんのマンガはそれとなく提案してるんじゃないかなあ、と。そこには、やはりもっと多くの人に読んでもらいたいなあ、と思うものがあります。あ、もう既にけっこうな人に読まれてるのか(笑)。でもまあ、もっともっと、読んでいただきたい、と。小中学校の道徳の教科書に掲載するとかですね(笑)、はい。あ、おしまいです。
宮田
どうもありがとございました。
(part2へ続く)
しむらたかこ。1973年10月23日生まれ。神奈川県出身。好きな場所は近所。
経歴:1997年に『ぼくは、おんなのこ』(『コミックビーム』でデビュー。その後同誌で初連載『敷居の住人』を発表し、じわじわと人気が高まってくる。2002年、『放浪息子』(『コミックビーム』)の連載スタート。2004年には、『青い花』が『エロティクス・エフ』(太田出版)で連載が始まる。2009年7月から同作はアニメが放映されている。近年、その動向が注目されている漫画家の一人。
作風:少年少女の揺れ動く心や女性同士の友愛関係を、淡々とした語り口で繊細に捉えた作風が男女を問わず人気を得ている。独特のゆったりとしたテンポと、登場人物の思考の動きに沿ってストーリーの流れを切り替える手法を用いるため、筋がわかりにくいと評されることもあった。だが、『青い花』以降の作品では、テンポを損なわない程度に丁寧な説明的描写を挟むようになり、読みやすくなっている。(wikipedia調べ)
2002から『コミックビーム』に掲載されている志村さんのマンガ。現在9巻既刊。
あらすじは以下。「女の子になりたい男の子」である二鳥修一は、転校先の小学校で、背が高くてかっこいい女の子高槻よしのと出会う。ある日、遊びに来たよしのに部屋に置いてあったワンピースを発見されてしまい、修一は困惑する。だが、よしのもまた「男の子になりたい女の子」であり、時折男装して遠くの街へ出ているのだった。お互いの秘密を知った2人は、修一はワンピースを、よしのは学ランを着て、遠くの街で遊ぶことになる。2人は成長による体の変化に悩み、周囲とのすれ違いに傷つきながらも自分の生き方を模索していく...。
個人的な思い出ですが、福岡の天神にあるジュンク堂4階に、『放浪息子』1巻から数コマの原画が貼ってあって、それを見て直ちに志村さんに入りました。
『放浪息子』の主人公のひとり。小学五年生の頃から、女の子のような自分の容姿と〈かわいい格好〉の魅力に目覚め、ナルシス街道まっしぐら。現在中二。ここぞというときに、めちゃくちゃ行動力のある実力派。
『放浪息子』のヒロイン?お母さんから〈かわいい女の子〉の格好をさせられるのがイヤで、その反動として男装へ。ニトリ君の女装趣味をずるずると引き出す男前だったけれども、中学になってからは、己の内なる乙女ぶりがいよいよ顕在化。素晴らしい。
『放浪息子』のデンジャラス・ビューティ。素晴らしい。
ニトリ君の親友。女装趣味がある男子だけれども、ニトリ君のようなかわいい容姿に恵まれず、その葛藤は深い。登場人物たちの諸関係を、もっとも客観的に見ている大人かつ、愛すべきキャラ。個人的には、マコちゃんのお母さんが、彼の大きな支えになっているように思います。
『放浪息子』で、みんなと中学校から一緒になる蕎麦屋の娘。学ランで登校したり自分の水着で水泳の授業受けたりとフリーダムなキャラ。自分にあからさまに敵意むき出しの千葉さんにも、また自分にあからさまに好意を抱いているモモにも、分け隔てなくポジティヴに対応する彼女のスタイルには、学ぶべきことが多い。
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