現在開催されている「FT4:第4回アジア美術トリエンナーレ」@福岡アジア美術館は「共再生」というテーマを掲げている。だから通常展示のみならず、アーティストの滞在制作はもちろん、地域や観客との交流を積極的に展開されている。そうしたメインテーマのもと、発信者と受け手のコミュニケーションが志向されているわけだが、しかし一方で、そうしたコミュニケーション志向を〈
ディスる〉視点も挟み込まれているようで、そこが、とても面白い。
メイン会場のリバレイン7階、最初の〈白の部屋〉には、チラシに載ってる
ホァン・ヨンピンの大きなヘビや
〈梅干し〉(本当は腐ったリンゴたけど)に頭突っ込んでる犬(アンキ・プルバンドノ)とか、北京オリンピック開会式で花火を担当してた
蔡国強(ツァイ・グォチァン)の火薬爆破ドローイング、アルティアムでもやってた
マイケル・リン
の組み合わせ模様など、有名どころが目白押し。
そんな〈白の部屋〉で、とりわけ印象的だったのは、非常に精緻な切り絵の作品、
ウー・ジエンアンの「手・脚」(下画像)である。

若い中国のアーティストらしく、担当した学芸員
さんによれば、彼は伝統的意匠オタクなのだそうだ。さもありなん。伝統的な切り絵の意匠をベースにしながらも、造形されているのは、むしろマンガ表現に根ざした現代的なデザインで、アーティスト自身、サブカルからの強い影響を認めているという。こういった種類の精緻さは、伝統や地域共同体から完全に断絶された意識が、イメージを通じて、伝統的意匠を人工的に再構成する際に特有のものだろう。
アーティストは、SARS騒動に象徴される社会的な不安や、青年期に特有の悩みを、作品に刻みこもうとしたらしい。だが、そこにあるのはパロディ化された(ネタとしての)伝統芸能であり、その優れてデザイン的・マンガ的なイメージがもたらすのは、作家の内面性や思想などではなくて、ひたすら洗練された美的な感覚のように思う。
そんな〈表現者の思惑と、表現された作品とのギャップ〉こそ、今回のトリエンナーレの裏テーマかもしれない。このギャップを極めて印象的に扱っていたのが、今回のトリエンナーレの白眉とおぼしき作品、すなわち
アン・ジョンジュの「ビデアノ・プロジェクト2―ピアノ教室のこどもたち」(レビュー冒頭画像および下画像)である。

〈白の部屋〉の出口にあるこの作品は、次のようなものだ。ピアノの鍵盤が置いてあって、ある鍵盤を押すと、その音を自信満々で発しているつもりの子どもの映像が映る。音程は全くあっていない。だから、ドレミファソラシドを弾いても、めちゃくちゃだ。キャプションにあるように、表現者(ピアノ弾く人)と表現された作品(歌う子供)とのディスコミュニケーションも甚だしいありさまは〈戦慄的〉ですらある。
もっとも、ここで〈戦慄的〉なのは、そうしたすれ違いやズレの悲劇性ではない。むしろ、映像の子どもと鍵盤を押す私達とのディスコミュニケーションが、これほど見事なインスタレーションとして楽しめてしまう点にこそ、戦慄すべきものがあると思う。
例えば、子どもが正確な音程で歌っていたとしよう。〈ド〉を押せば、正確な音で子供が〈ド〉を歌うわけだ。それだと、きちんとした曲も弾けるだろう。で、そんな〈ピアノ〉を弾いたとして、果たしてどんな気分だろう?
そうした問いに、この作品は「自分の思い通りになるなんて気味悪いよね」と、一見応えるようだ。でも、そこで重きが置かれているのは、相通じるコミュニケーションへの「違和感」よりも、むしろすれ違う諸相の「面白さ」のほうではないか。積極的にコミュニケーションを間違えよう、そっちの方が面白いじゃん、と。
こうした意識、そして〈間違えた方が面白い〉という感覚を持ってしまうと、〈作品を通じてアーティストの本意を探る〉といった鑑賞のスタンスは、ある決定的な転換を迫られてしまう。というのも、上の問いは、例えば〈アーティストの世界観や訴えたいことが、そっくり伝達されるような作品だったら、果たしてどんな気分だろう?〉という問いとパラレルだからだ。
この問いにも、おそらくアン・ジョンジュの〈作品〉(アン・ジョンジュ本人ではなくて!)は、「アーティストがどう思ってるかはともかくとして、面白いように誤読すればいいじゃん」と応えるのではないか、と私は思う。そしてその意味で、このアン・ジョンジュの作品は、今の日本の、ある特有の雰囲気に滲みやすいのだろう。(そしてまた、日本と同じ雰囲気があちらにもあるのだろう、とも推測される。)
ある特有の雰囲気、それは「空耳」的なスタンスを面白がる雰囲気だ。海外の事情は良く知らないけれども、こと「空耳」に関して言えば、その発祥である『タモリ倶楽部』をはじめ、ニコニコ動画など、日本で「空耳」は、メジャーではないにせよ、ある一定の影響力を持っている。
ここで「空耳」とは、一般に、作品本来の意味内容を度外視し、「こう言ってるように聞えた」という〈現われ〉の観点から、受け手側が、作品の意味内容を組み替えてゆくことだといえるだろう。その意味では、伝統的な芸術受容のモデル(作者→作品→受け手)というトップダウンな図式を、逆転するものでもあるかもしれない。
そう書くと、なんだかすごいことのようだけれども、実際の「空耳」は、往々にして、深刻な内容を軽薄に読み替える、愉悦に満ちたお遊びだ。そしてコミュニケーションそれ自体が自己目的化した窮屈な状況の中で、「空耳」のディスコミュニケーションは、状況を相対化するものとして、しかし貪欲に消費されている。アン.ジョンジュの作品は、そうした消費に、しっくりなじんでいる。
そんなわけで、空耳消費者の私は、軽薄に積極的に誤読する。そしてそのスタンスは、トリエンナーレの〈黒の部屋〉に並ぶ社会派作品と、悲しいまでのすれ違いを起こす。
鞣した皮で造られた休憩する車(サジャナ・ジョシ)は、作品のテーマらしい動物と人間の不幸な関係よりも、何よりその造型(ポーズ)がジョジョ的(あるいはエゴン・シーレ的)な点にこそ新鮮な驚きがあったし、
花火の映像作品(キム・ソンヨン)のあまりにチープに聞こえる音や、
ずっと走ってるおじさん(ジュン・グエン=ハツシバ)には爆笑してしまうといった具合だ。ハツシバさんなんて、「難民の苦しみを自らの行動で体現しようと」走ってるらしいのだが、福岡では足を挫いて走れなかったとか、もういちいちギャグとして笑えてしまうのである。
ただそんな中、次の2作品は、不埒な眼差しを跳ね返す強度を持っていたように思う。ひとつは、受け手とのコミュニケーションが端から放棄されている
シュ・ビン(先生!)の膨大な〈文字〉群。もうひとつは、
ヤスミン・コビール&ロニ・アメフッドの「葬儀」だ。

とりわけヤスミン&ロニの「葬儀」(上画像)、劣悪な環境で巨大な船を解体する労働者に取材した映像は、さながら微生物が生き物の死体を解体しているかのよう。それは、「〈人間〉がこんな目にあっている!」といった正義のドキュメンタリーでは決してない。その映像には、〈人間的なもの〉、そして〈人と人とのコミュニケーション〉といったヒューマニズム的な基盤が、およそ見出せないのである。
だからこそ、ヒューマンなコミュニケーションに辟易している者に、かなりの強度を持って迫ってくる。この手の作品に対する素朴な疑問(ドキュメンタリーとどう違うの?」)、あるいは批判(ドキュメンタリーのほうが立派だ)等々に対して、この作品がもつ意味は、そうしたところにあるのだろう。
〈アーティスト&作品と観客とのコミュニケーション〉という、今日の美術館が受け入れざるを得ないテーマ。その脇で、そうしたあり方をアイロニカルに捉える目線と、そしてコミュニケーションから断絶され、屹立する作品。脇の二点からメイン会場の作品群や様々なイベント見渡すとき、そこに、今回のトリエンナーレをめぐるアレゴリカルな諸相が垣間見えるように思われた。
■使用画像
すべて福岡アジア美術館様からご提供いただきました。ありがとうございます!
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【画像:上から1番目】
アン・ジョンジュ
「ビデアノ・プロジェクト2―ピアノ教室のこどもたち」
2006年
写真:今村馨
【画像:2番目】
ウー・ジエンアン(鄔建安)
「手・脚」
2008年
写真:今村馨
【画像:3番目】
アン・ジョンジュ
「ビデアノ・プロジェクト2―ピアノ教室のこどもたち」
2006年
写真:今村馨
【画像:4番目】
ヤスミン・コビール&ロニ・アフメッド
「葬儀」
2008年
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