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別冊ドネルモ 《ぼくたちの志村貴子》 TalkAround part2


プレゼン:古賀琢磨 
構成・文責:宮田智史

 

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別冊ドネルモ《ぼくたちの志村貴子》talkaround-part2では、古賀琢磨さんによるプレゼンの要約をお届けします!

わたし(あなた)はこれこれだ!を飛び越える-志村貴子の処方箋

◆志村貴子の語りにくさ
社会学系おたく研究者の古賀琢磨さんによれば、動画共有サイトにおけるアニメ版『青い花』は、その他の作品と異なって、百合展開(*注1)に対するコメントが圧倒的に少ないのだそうです。こうした状況は同時期に放映されていた『咲-Saki-』(*注2)などと比較すると明らかでしょう。

その要因として古賀さんは、志村貴子の作品がなぜか「語りにくい=語りたいが語れない」からではないかという理由を挙げています。でも、そうした<語りにくさ>が描かれているからこそ、わたしたちは志村貴子をどうしても読んでしまう。

◆志村作品の魅力と一貫性の論理
では志村作品の魅力とは何か?古賀さんはズバリその魅力を「<一貫性>に縛られないで生きていく方法が描かれているところ」、だと言います。

ここで古賀さんが用いている<一貫性>という言葉には、主に二つの意味があります。一つ目が、わたしはこういう人間なのだ!と自分で自分のことを決めてしまう自己規定のあり方。二つ目が、他者が自分で感じ取ったわたしのイメージを強引にわたしに押し付けて、それ以外のわたしを認めないというあり方。

このような2つの意味を持つ<一貫性>の論理は、もちろん誰もが日常的に行っていることで、簡単にいうと<わたし(あなた)はこれこれだ>といえるでしょう。けれども、そんな当たり前の行為が人の生き方を縛ったり、生きにくい状況を生み出している場合もある。古賀さんによれば、志村作品には、そうした<一貫性>の論理から生ずる、暴力性や生きにくさへの処方箋が描かれているのだそうです。

◆描かれているのは疎外感ではなく、どうしようもなさのほう
一見すると、この一貫性の論理と多くの志村作品は関係ないように思えます。ただし、周囲の環境や共同体に対して、疎外感や何らかの違和感を持った人物たちがよく登場する。例えば、『放浪息子』に登場する二鳥くんは女の子になりたい男の子であり、『青い花』のヒロインであるふみちゃんは、女の子が好きな女子高生です。ただし、こうしたいわゆるセクシャル・マイノリティと呼ばれる人物を扱った作品ばかりではありません。『ラブバズ』や『敷居の住人』などでは、はた目には優柔不断にみえるけれど、あたかも<りっぱな大人>になることを回避しているようにみえるキャラクターも描かれています。

しかし、志村作品で描かれているせかいは彼ら=疎外感や違和感をもったキャラクターたちが、社会に受け入れられないで葛藤しているのでも、疎外感を抱える者同士で小さな共同体を形成していることでもない、と古賀さんは言います。実際に重要なのは、そうしたキャラクターたちで形成された共同体でさえ自分たちを傷つけるという、<どうしようもなさ>の方なのです。自分自身も疎外感や葛藤を抱えているにもかかわらず、誰かを傷つけてしまうことを避けられない<どうしようもなさ>。この感覚こそ、志村貴子の作品が描き出す「僕たちのリアリティ」であると共に「語りにくさ」を私たちに突きつけるものなのです。

◆<わたし(あなた)はこれこれだ>が縛るもの
例えば『放浪息子』の序盤において、千葉さんから二鳥くんは女の子として高槻さん(男の子になりたい女の子)が好きなのか、それとも男の子として好きなのかと問われる場面があります。彼自身も自分では分からない。したがって、二鳥くんはそうした複雑な葛藤を抱えたながらも、<わたしはこれこれだ>とはっきりと言及しない、そんなキャラクターとして描かれているといえます。他の登場人物たちもそうした判然としない曖昧なところを二鳥くんだとみなし、そんな彼と関係を結んでいきます。

けれども、そんな二鳥くんが女装して学校に行くという決断を下したあと、つまり<わたしはこれこれだ>とはっきりさせたあと、事態は思わぬ方向に変化してしまいます。それを象徴するのが「二鳥くんがあんなことをしなかったらわたしたちこんなに気をもまなかった」(9巻)という千葉さんの発言でしょう。二鳥くんは人前で女装することを決断しました。今までの判然としない曖昧な二鳥くんは、具体的な決断によって書き換えられたのです。でも、そんな二鳥くんは千葉さんがそれまでイメージしていた二鳥くんとは決定的に違う。千葉さんは自分の抱く二鳥くんのイメージと目の前にいる二鳥くんとのギャップを彼への不満として口に出したのです。

それゆえに古賀さんは、こうした<一貫性>の論理は変化に対してひどく過敏で、時に私たちを<過去の一地点>に縛るものになると言うのです。

◆<一貫性>を必要としてしまうわたしたち   
もちろん、私たちは否応なく自分にも他人にも一貫性を要求してしまいます。なぜならわたしたちは自己形成の過程において、わたしはこれこれだ、というアイデンティティの確立を必要とするし、ある決まった見方を当てはめることでしか他人と関係しえないからです。だからこそ、常に私が抱く自己イメージと他者が私について抱くイメージとの間に分裂が生ずるのです。

ただ、そうした分裂したあり方は、自己と他者、自己と社会の間で矛盾に引き裂かれるばかりでなく、肯定的に捉えることもできるでしょう。というのも、私だけの固定化した自己像を、他者にひらくという仕方で更新していく行為は、自己が既存の自己規定から解放されてゆくことにもなり、自己と他者の回路を繋いでおくことだからです。

ただし、このような自己の意図がまったく違った意味を帯びてしまう可能性、自己像が絶えず更新されるという局面に身を曝すという自己と他者との関係は、あくまで理想的な関係性だといえます。どうしても関係性は硬直化してしまうし、「過去のある一地点」に縛られてしまう。結局、私たちは自分にも他人にも一貫性を求めてしまう。

◆志村貴子の処方箋
しかし志村作品は、そうした状況を追認しているわけでも、単に理想的な共同体や関係を描こうとしているわけでもないのです。古賀さんによれば、志村作品には一見すると無責任と思えるキャラクターが描かれていて、そうしたキャラクターたちが<わたし(あなた)はこれこれだ>という一貫性の論理を否定しているのではないかと指摘します。彼らの存在こそが、否応なく一貫性の論理が支配する世界においての処方箋ではないかと。

それは<わたしはこれこれだ>という積極的な仕方で大人になっていくのでもなく、のらりくらりと<あなたはこれこれだ>と規定されることを回避しながら<どうしようもなさ>を肯定的に生きていくような、そんなキャラクターたちです。そして、このようなキャラクターが示す絶えることなき変化を引き受ける態度こそ<どうしようもなさ>への処方箋であり、志村貴子が描く<一貫性の論理を飛び越える作法>なのです。

(part3へつづく)

 

 

 


百合(注1)

 百合(ゆり)とは、女性同士の恋愛、もしくは恋愛的な強い絆を題材とした日本の漫画、ライトノベル、アニメなどの作品のジャンルのこと。女性、主に思春期 の少女同士の恋愛感情、または強い友愛関係を示す概念。ガールズラブ(略してGL)と称されることもある。(Wikipedia調べ)

 


咲(注2)

小林立による日本の麻雀漫画作品。スクウェア・エニックス『ヤングガンガン』2006年12号より連載中。全国高校生麻雀大会(インターハイ)優勝を目指 す清澄高校麻雀部と、その新入部員である宮永咲の物語。本作の特徴として麻雀漫画では珍しい萌え絵で美少女雀士が活躍すること、そして多くの美少女キャラ の百合展開が挙げられる。

 


09/11/11 04:24 | コメント(0) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

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