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メディアを超えた翻訳―アニメ『化物語』の表現力


(文:笹野正和)

2009年6月、文学界では名高い西尾維新の小説『化物語』が、初めてアニメ化され、放送された(監督:新房昭之、シリーズディレクター:尾石達也、制作:シャフト)。至高の「言葉遊び」ともいえる同作をどう映像化するか、制作者の力量を最大限問うような作品であったが、制作者たちはそれぞれの仕方で『化物語』に応え、アニメ・映像というメディアの表現の可能性に挑戦しているように思われる。この文学からアニメというメディアへの移行において、何が新たに生み出されたのかを、映像表現の観点から考えてみたい。


小説版『化物語』の面白さは、その軽妙洒脱な掛け合い・会話劇やめくるめく言葉の言い換え・言葉遊びと関係しているといえる。言葉がぎっしり詰まっているのにすらすら読める、という指摘があるように(多根清志によるレビュー、『オトナアニメvol.13』所収)、その小説では紙の上に置かれた文字がなめらかなリズムをもって視線を流れ、単に情報・記号としてではなく文字というメディア自体のもつ面白さが浮き彫りになっている。そして軽妙で趣向にあふれた会話・掛け合いや滔々と繰り出される心理・情景描写がふんだんに盛り込まれた飽きのこないエンターテイメントとして読者を楽しませてくれる。ただそうした文字独自の面白さを、いかに映像の次元に変換し、もともとの読者まで納得させるかは難しい問題だっただろう。

しかしアニメ版『化物語』は、そうした困難の試みに様々な仕方で回答を与えようと工夫していると思われる。それは小説のもともとのストーリーを忠実に丁寧に再現するという、通常のレベルの翻訳の仕方にとどまらず、文字メディアの面白さに対抗して映像メディアの面白さの可能性を極限までつきつめる、という方針となって表れているといえる。例えば、第三話の演出は映像的表現の一つの極致といえるだろう。そこでは、場所の移動はほとんど行われず、巨大な団地に囲まれた公園の空地が舞台となっている。普通ならあるはずの場面転換が一切なく、無味乾燥にもなりかねない一カ所だけの場面に際して、制作者たちは可能な限りの視点の変化をもって応じる。

しかも、それはミニマルな色の要素(赤・青・黄・白)の組み合わせによって作られた映像(公演の場面)の中で行われる。視聴者は、青と黄色の柱で円状に構成されたサイクリング用の遊具、赤い長方形のシーソー、格子状の登り棒など、構成主義ともいえるような形状の様々な組み合わせを様々な視点から見せられる。それはあたかも、前のシーンとはまったく違う場面に移ったかのような錯覚を生じさせる。このように場面の転換のないままに変化を生み出す手法は、最小限の要素でもって豊かな彩りを画面に与えていた。まるで、その中で行われる主人公とヒロインの会話劇に対抗するかのように、文字と映像のどちらがより面白くなれるかを競っているかのように、ふたつのメディアが同時に表現されていたように思われる。

それだけでなく、アニメ版は文字自体を一つの映像的要素として取り込んでいる点も興味深い。各話の冒頭であらすじが文字として流されるが、それは意味をひろって読み切れないくらい速く、次々と矢継ぎ早に切り替えられ、背景の色との組み合わせや縦書き・横書き、漢字・カタカナの多少によって様々な映像的要素に分解された上で流されている。それはそのまま目で流してしまってもよいし、後で発売されるDVD版などで、一コマづつ止めて読んでもよい、という趣旨らしい。つまりここでは文字そのものが、意味を読み取るものではなく、映像を構成する成分へと変容させられているのだ。これはこれで文字メディアのあり方を書き換える面白い試みといえるだろう。

このようにアニメ版『化物語』では、メディアミックスという現象の中で、ただ単に一つの物語を他のメディアに移し替えるにとどまらず、その作品に対してそれぞれのメディアがいかなる独自性を発揮しうるかを突き詰めようとする一つの興味深い試みといえるだろう。もちろんこの他にも、各話に登場する女性キャラの魅力や、彼女らが主人公に持ち込む妖怪・精霊がからんだ事件、それらを解決するために東奔西走し、時に自らが犠牲になることもいとわない主人公の倫理、それぞれのキャラが発する含蓄のあるセリフの数々など、アニメ版『化物語』の魅力は枚挙にいとまがない。『化物語』をご存知ない方も、小説版だけ読んだという方も、ぜひご一覧いただきたい作品である。







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コメント(7)

紹介されている小説もアニメも見てないのですが、笹野さんの熱のこもったレビューを読んで、それぞれの作品に興味を持ちました。今度機会があれば見てみようと思います。ありがとうございました。

ただ、以下のふたつの点が良くわかりませんでした。

ひとつは、第二段落にある「小説では紙の上に置かれた文字がなめらかなリズムをもって視線を流れ、単に情報・記号としてではなく文字というメディア自体のもつ面白さが浮き彫りになっている」という点。これはたぶん西尾さんの小説を読めば解決するのでしょうけれど、具体的に「どういうことだろう?」と思いました。

ふたつめは、おそらく笹野さんのレビューの論旨にかかわります。結論を先に言えば、笹野さんが「アニメ・映像というメディアの表現の可能性に挑戦しているように思われる」点として挙げられた点は、実は、アニメや映像でなくても表現可能ではないか、と思われたのです。以下具体的に書きます。

まず第3・4段落で挙げられている、同一の場面を出来る限りの多様性でもって描く描き方については、アニメ以外のメディアでも表現可能だと感じました。たとえば絵画や写真を複数枚使えば表現可能ではないでしょうか―僕はここで小説の挿絵にアニメの静止映像を入れ込んだ場合や絵本化した場合を想像しています。

そして続く第5・6段落で指摘されている文字を視覚的要素として用いる点についてですが、こちらは美術作品の中に先例が散々ありますよね。卑近なところではアスキーアートとかも、そのように言えると思います。

というわけで、「その作品に対してそれぞれのメディアがいかなる独自性を発揮しうるかを突き詰めようとする一つの興味深い試み」と笹野さんは仰るのだけれども、上記の点のみでアニメの独自性を主張するのは難しいのではないかというのが正直な感想です。

で、ここから先は推測にすぎませんが、おそらく笹野さんの仰ることとアニメ版「化物語」のホームページで見た映像から類推するに、アニメ版「化け物語」は、笹野さんの主張とは逆に、アニメの独自性を一部放棄しているのではないか、と思えました。

僕にとってアニメの独自性とは、極めて単純化して言うと、「絵がなめらかに動く」という点にあります(この定義でいけば、絵画とも実写の映画とも、とりあえずは区別出来ます)。しかし、アニメ版「化物語」は、それを放棄します。「絵が動いて」作られるであろうはずの3次元的な空間を放棄し、同一空間内での視点の切り替えという絵画や写真でも可能な表現を採用する。あるいは、文字を視覚的要素に変容させるという点も同様に、もっとなめらかに動かせるはずなのに、どこかぎこちない(変な言い方になりますが「ぎこちなく」かつ「リズミカルに」動いていますよね)。あたかも、複数の静止画を組み合わせて作ってますよ、と明示しているような感じです(これは「化物語」のホームページの動画を見た印象です。笹野さんが仰っている動画とは違っているかもしれません)。


***

と、ここまで書いた時点で気づいたのですが、僕のアニメの独自性についての定義が間違っているのかも・・・。「アニメは静止画像を組み合わせて映像を作る技術」だと定義すれば、視点の切り替えや、複数の静止画をいくつかのレイヤーに分けて文字を動かすことも、アニメの独自性を追求する試みのように思えてきました。というのも、それらの効果はいずれも、アニメがそもそも静止画像によって構成されていることを示唆するものだからです。そして「化物語」は笹野さんの仰る通りのアニメかな、と思えてきました。
殆ど自己解決してしまいましたが、せっかく書いたので投稿しておきます。

 早速のコメントと鋭いご指摘、ありがとうございます。コメントを拝読して、改めて『化物語』というアニメの独自性とは何かを考えさせられました。
うまくお答えできるか分かりませんが、自分の見解を書かせていただきます。

 まず、文字そのもののメディアの面白さについて。小説というのは、普通、文字によってある場面の様子や人の心情を描くと思います。そのとき、文字はその場面や心情を伝える手段として扱われます。つまり文字は場面や心情を指し示す記号となっています。そうして文字は、世界のあらゆる出来事や人の内面を正確に伝える情報・メディアとなります。(完全なノンフィクションでない限り)小説は伝えるべき世界自体が虚構ですが、そこにおいても文字はその虚構の場面や虚構の人物の心情を忠実に示す記号として扱われ、その精度が高ければ優れた小説といわれるでしょう。

 ところが、西尾維新の場合、そうした指示記号(メディア)としての役割以外で、文字が使用されることがあります。それは別に場面や心情をさらに詳しく述べるために費やされるのではありません。その文字は、先行する文字(単語)との関連に依拠してのみ存在し、先行する文字との形態上の類似点と相違点のバランスの面白さを表現するためだけに使われます。たとえば、主人公の苗字は阿良々木(これ自体、何かの当て字のようです)といいますが、これをあるヒロインが呼ぶ時、なぜか「ありゃりゃ木さん」とか「ムララ木さん」とか「阿良々々木さん」と様々なバージョンで呼び違えます。指し示すものは同一の人物であるのに、わざと表記を変えて、文字自体の変化で読者を楽しませる。そのように西尾維新は、単なる記号・情報という役割を超えた、文字というメディア自体の豊かさ・面白さを表現していると思います。拙い説明で申し訳ありませんが、ぜひ西尾維新的文字ワールドを直に読んで体験していただきたい、と思います。

 次に、アニメ『化物語』に本当にアニメ的独自性があるかという問題について。藤木さんのおっしゃる通り、同一の場面を様々な視点から映して、その多様性を表現するメディアは、アニメに限らず存在します。そして文字を視覚的要素として取り入れ、作品の一部にしたもの(遡っては、ピカソらのコラージュ(パピエ・コレ))は、アニメ以外にも存在します。そして、その意味では正しく、アニメ『化物語』は、アニメ以外の表現メディアと区別のつかないものになっています。それにもかかわらず、『化物語』のアニメ的独自性はどこにあるのか。

 これに対して僕は、そういう写真や絵画や実写という表現メディアの可能性を取り入れつつ、一連のつらなり(動画)を形成する、というハイブリッド(異種混交)性こそ、このアニメ作品(さらには他の新房・シャフト作品)において、特に際立っているアニメの独自性である、と考えます。つまりアニメは、他の表現メディアの成果を複合的に取り入れつつ、しかもそれをある時間の流れの中で連続的・総合的に構成して、一つの作品へとまとめあげるのです。そこには時に、キャラクターの滑らかな動作や場面の流れるような移動を妨げる、文字だけのカットの挿入や大胆すぎるとさえ思える視点の転換があります。これは、藤木さんが最初におっしゃったように、アニメが「絵がなめらかに動く」という定義で作られるものだとすれば、完全な逸脱行為となるでしょう。

 しかし、後で藤木さんがおっしゃっているように、アニメが「静止画像を組み合わせて映像を作る技術」だと考えるなら、『化物語』の表現に見られる、滑らかな動きをあえて妨げているかのような、奇抜で異常ともいえる各カットの入れ替わりの激しさこそ、アニメというメディアの持つ本質を最大限に意識した表現といえるでしょう。そういうわけで僕は、『化物語』を、アニメの独自性を追求する一つの試みと考えました(もちろん他にも、様々な仕方でアニメ表現の可能性を追求する作品はあるでしょう)。うまくお答えできたかどうか分かりませんが、以上が『化物語』に独自性を見出した理由です。いかがだったでしょうか。

 ここからは、直接に藤木さんへのお答えになるわけでなく、多少歴史的になりますが、自分なりにアニメの二つの方向性から『化物語』(ならびに他の新房・シャフト作品)を位置づけさせていただきたいと思います。長文になりますが、お付き合いいただければ幸いです。

 アニメというメディアは、もちろん様々な国(例えばフランス、チェコ、ロシアなど)で発展し受容されているのですが、その一つの大きな流れとしてディズニーアニメの伝統があります。ディズニーアニメは「フルアニメーション(1秒間に24コマを撮影する方法)」を基本としていて、その映像は自然に忠実に映像を見せることができます。その技術はすでに1930年代に確立され、現在と比べても遜色のない映像作品が作られています。その映像はまさに「流れる」ように、徹底的に滑らかで自然に見えるように作られています。そうした伝統は、日本では宮崎駿の映画作品や、かつての東映動画といった制作者に見られます。

 これに対して、日本で大々的に使用されたのが1秒間に8コマ(フルアニメーションの3分の1!)で撮影する「リミテッドアニメ」です。これは最低限のコマ数で、人間の目からは連続しているように見える映像を作る技術で、もともとは制作費節減のため、手塚治率いる虫プロダクションが多用した手法です。本来は一時しのぎだったのかもしれませんが、慢性的な資金・時間不足の中、効率的にテレビアニメを作る手法として、1970年代には常態化していきました。しかし、そのある意味では紙芝居を延長したような原理で1枚1枚の絵をやりくりして、連続した映像に見せるというあり方は、アニメのもつ人工性(非自然性)・虚構性を制作者たちに感じさせたようです。そこから逆に、自然な動きや場面をそのまま模写するというのではなく、リミテッドアニメだからこそできる表現を模索する動きが始まりました。例えばこのコマ数の制限を逆手にとり、人物の顔を長時間にわたり1枚の絵だけで見せて、印象的なシーンだと思わせたり、その心情を音声で説明したりする手法が生み出されました。さらには、アニメが1枚1枚のセル画で構成された人工物であることを徹底的に自覚し、極端な場合コマごとに相互につながりのない絵で映像を構成する作品も登場しました。『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)のOPなどは、その代表例だといえます。そうした今日まで続くリミテッドアニメ的表現の一つの極致として、2000年代の新房昭之監督ならびに制作会社シャフトの作品群があると思います。新房監督とシャフトが本格的にタッグを組んで、制作を始めたのが『月詠-MOON PHASE-』からで、以来、『ネギま!?』や『さよなら絶望先生』シリーズなど数々のヒット作を生みつつ、アニメ自体のあり方や、既存のアニメ観を問い直すような、メタアニメ的表現を追求しているといえます。

 私見ですが、特に2005年の『ぱにぽにだっしゅ!』(以下『ぱにぽに』)において、新房監督のアニメ表現は、一つの極点に達したと思います。この作品では、徹底してアニメが人工的・虚構的なものであり、先行する様々なジャンルの表現を取り入れたハイブリッドな領域であることが描かれています。例えば、冒頭のOPの題名からして明らかに往年の名曲をもじったであろう「黄色いバカンス」です。さらにそこで流れる映像は、各コマごとに様々な原色で彩られた幾何学的図形が視聴者の情報処理が追いつかない速度で次々に入れ替わります。またその中に登場するキャラクターも、そうした人工的な画面に合わせるかのように、自然な形ではなく、頭部をヤカンに付け替えられたり、鉢植えに入って走ったりする、シュールな光景を繰り広げます。これはキャラクターが、実際の人間に似た存在ではまったくなく、アニメという虚構の中で成立していることを、初っ端から強烈に印象付けることになります。

 しかし、『ぱにぽに』のハイブリッド性は、そうした虚構としてのアニメという限界内にとどまるだけではありません。OPに続くキャラ紹介の部分では、キャラが登場するごとに、ゲームなどにおいてよく使われるパラメータによる表示(例えば「おとなしさ6」とか「賢さ9」とか)が用いられ、キャラがゲーム的なリアリティをもった存在として描かれます。そして(この作品は一応、学園ドタバタコメディといえますが)、黒板には様々な時代のアニメや映画、ドラマの名台詞が書き込まれ、物語の本筋とは関係ないところで、それらの名台詞集といったものが作られ、様々な世代の視聴者が過去の自分の人生との接点を見出します。また物語は基本的に1話完結で、キャラたちが各話ごとにまったく異なるシチュエーションや設定の中を動き回ります。最もラディカルだったのは、全26話中、第23話において一応、作品のクライマックス的展開が始まり、第24話では当然その続きが放送されると視聴者に思わせておきながら、まったく関係のない物語(しかも全編があらゆる時代劇のパロディ)を放送したことです。ここでは、一つの大きな物語が作品全体を構成する軸であることが決然として否定され、作品の主軸がそのつど断片的に取り込まれた多くの時代劇のヒーローや名シーンであることがはっきりと打ち出されています。

 誤解を恐れずに言えば、この作品には最初から最後まで、作品全体を貫く一貫した物語というものはなく、ただ様々な属性をもったキャラ同士の掛け合いや、過去の様々な映画・アニメ・テレビ番組・歴史的人物の虚実入り混ざったパロディ(引用)による各画面を連続的につなげた構成があるのみでした。しかし逆に、そうした断片の集積(と何がしかのストーリー)だけで、アニメ作品が成立することを示した点で、『ぱにぽに』は数あるアニメの中でも革命的な作品であったと思えます。そこでは、現実(リアル)に対して虚構(偽物)であり、せいぜい現実の模倣であると思われていたアニメ的領域が、実はそれに先行、あるいは同時に進行し、我々の人生を彩り、影響を与えてきた多くのメディア(美術・デザイン・テレビ・映画・ゲームなど)と接続し、それらに基づいた一種のリアリティを形成するということが如実に示されています。それらのメディアは、もはや我々の生活そのものに抜きがたく根を張っていて、現実と呼ばれるものも、そうしたメディア抜きには考えることさえ難しい。すでに現実と虚構という単純な対立や一方による他方の支配というものはなく、あるときには虚構が現実といわれるものを模倣するように、現実が虚構によって形成されているのだ、と僕はこの作品を見て実感したのでした。

 以上、主に『ぱにぽに』を例にしつつ、日本のリミテッドアニメ的表現の一つの到達点として、新房監督作品を位置づけてみました。これとは全く異なる視点から、現在の新房・シャフト作品を評価することも可能でしょう。そうした評価・批評が行われていけばますますアニメ界は盛り上がるだろうな、と思います。

 大変な長文になってしまい、申し訳ありませんが、以上で終わります。

笹野さん、丁寧なコメントありがとうございました。

 僕はアニメをすべてひとくくりにして考えていましたが、フルアニメーションとリミテッドアニメとを区別することによって、ずいぶんと見通しが良くなったように感じました。リミテッドアニメはフルアニメ―ションとは異なった独自性を持っていること、そしてアニメ版「化物語」はリミテッドアニメの特徴を上手く活かしたものだ、という笹野さんの主張はよく理解出来ました。

 それと、そもそもは経費削減のためだったリミテッドアニメが次第に独自性を発揮していったというお話はとても面白いですね。 フルアニメーションに比べた場合、コマ数が圧倒的に少ないリミテッドアニメは技術的に劣るものだったはずなのに、それを逆手にとったとさえ思えるような手法が生み出さ、ついにはフルアニメーションが目指していたものとは遠く離れた地点にまで到達した。フルアニメーションは完璧なイリュージョン世界を描き出すことを目的とし、他方、リミテッドアニメは色彩や音や文字などが「物語」とは無関係に絶えず運動し続け、イリュージョン世界の中に自然に組み込まれるはずだった諸々の要素が分解され再構成されることで成立している、と言えば単純すぎるでしょうか。

 もっとも、リミテッドアニメが、完璧なイリュージョン世界を描くことを放棄しているといっても、それらが非イリュージョン(あるいは反イリュージョン)を提示しているのではなく、フルアニメーションとは違った形でのイリュージョンを提示している、というのが僕の実感です。

 なので笹野さんは「ぱにぽに」を見て「すでに現実と虚構という単純な対立や一方による他方の支配というものはなく、あるときには虚構が現実といわれるものを模倣するように、現実が虚構によって形成されている」と実感されたそうですが、僕はそうした実感を得るには至りません。仮にアニメが、僕たちの生活に抜き差し難く根を張っているメディアのコンテンツを引用/パロディ化したところで、虚構内において虚構が引用されているだけであって(あるいは言い換えると、あるひとつのアニメが、そのアニメの枠を超えて、別のコンテンツと接続しているだけであって)、未だ現実とは峻別される領域にある、と感じてしまうのです。これはアニメに対する考え方の違いというよりかは、現実に対する考え方の違いではないか、と思います。

 その点のみ共感出来ずに残念ですが、しかし、リミテッドアニメの可能性が確認出来たのは良かったです。「化物語」や「ぱにぽに」も今度見てみようと思いました。ありがとうございました。

 藤木さん
 
 おっしゃる通り、「現実が虚構によって形成されている」は、場合によっては踏み込みすぎた表現になるかもしれません。そもそも現実や虚構をどう定義するか、現実といわれる領域と虚構といわれる領域のどちらにより親近感を持っているかなどの、世界観というか世界に対する考え方によって、各人がそのつど現実と虚構の領域を分けているわけで(僕も無意識にそうしています)、どちらか一方に還元されてしまうわけではないことは確かでしょう。

 ただ、幼いころからテレビ番組やアニメを見て育ち、それらから受け取った様々な考え方や生活様式、言葉遣いに至るまで、人生の隅々にまで影響を与えられ、さらには現在の社会との関わり方まで学ばされてきた(もちろん、家族や学校や社会からも学びましたが)、僕のような人間にとっては、アニメという領域は、確実に人生を生きる上でのある種のリアリティを形成している、と思います。

 これはよくいわれるように、アニメ的虚構の世界といわゆる現実の世界を安易に混同して現実の中で危険な行為をしてしまうというのでなく、既存の現実のルールはきっちりと踏まえて社会的人間として生きつつ、その中では直接実現できないような願望や夢を形にできる次元とも並行して生きる、というある意味では非常に常識的な生き方ではないか、と思います。そして、その虚構という自由な表現の場、現実の他者に直接影響を及ぼさない次元で、いろいろな状況や実験的な試みをシミュレーションして、よりよい人間関係や社会のあり方を模索し、人々に開示する。そうした社会改革の実験場になる可能性をアニメ(もちろんアートやデザインなどもですが)は持っていると思うのです。

 また長々と自分の言い分を書いてしまい、すみません。ともあれ今回、藤木さんのご質問に対してお答えする中で、僕自身深く考えさせられ、大変に示唆を受けました。またいろいろとご指摘くだされば、嬉しいです。ありがとうございました。

 
 

笹野さんの文章を楽しく読ませていただきました。アニメやライトノベルといった分野の初心者ながら、それゆえに新しい体験にわくわくしている読者として質問させていただきます。メディアミックス的状況の中で、アニメ版がいかなる意味で小説版の「翻訳」となっているかを解説するご趣旨かと拝読いたしました。しかしながら『化物語』の小説版を読んだかぎりでは、むしろ逆に、小説がアニメの翻訳であるかのように私には思えるのです。

つまりこの「小説」と称されている物語は、作者の頭の中でまずもってアニメ的な「萌え」キャラが設定され、それがアニメとしてどのように生き生きと魅力的に活動するかを脳内で想像しながら、それをわざわざテクストメディアで記述したもののように読める、ということです。

登場人物はみなさんどうもツンデレであったり、ランドセル少女であったり、学級委員長だったり、後輩元気キャラだったりするわけです。まずもってそういった既成の類型化されたキャラ設定ありきで、それぞれのキャラが実は心に傷を負っていて、それを主人公の素朴な男の子がケアする、という「萌え」の王道ストーリーが、そのキャラの効果を高める目的をもって後からこじつけられている、かのように読めてしまうのです。

そうすると、ご主張の、小説からアニメへのメディアミックス的「翻訳」なるものは、じつは二重の翻訳だということになりそうです。原作小説そのものがすでにしてイメージからの翻訳であり、その小説からの翻訳としてアニメイメージが成立しているからです。前置きが長くなりましたが、ここでふと、私は疑問にとらわれました。つまり笹野さんが主張される「翻訳」なるものは、じつは、脳内キャライメージを小説へとひとたび暗号化(コード化)したものをあとからアニメ絵に復号したに過ぎないのではないか、という疑問です。

もしそうだとすると、なぜわざわざそんなことをする必要があるのでしょうか。最初からアニメを作ればよいのではないでしょうか。それとも理想のキャライメージをわざわざテクストとして表現するところに何らかの特殊なエロスが息づくのでしょうか。それは人妻なり秘書なり女教師を妄想させる一種の官能小説のごときものなのでしょうか。これを考えていると夜も眠れません。お答えいただくとうれしいです。

Kさん

 ご質問いただきありがとうございます。

 ご質問は、小説のキャラクター造形やストーリー設定が、すでにしてアニメ的な表現であるとして、ではなぜ初めからアニメというメディアで表現しないのか、あるいはアニメ的表現をわざわざ小説で行い、その後でアニメへと翻訳するという二重の翻訳にどういう意味があるのか、という趣旨かと思います。

 これに答えるにはまず、メディアミックスという現象を説明する必要があるでしょう。メディアミックスとは、特に1990年代に盛んになった現象で、一つの作品やキャラクターをアニメ・ゲーム・小説(ライトノベル)・マンガ・フィギュアなどの様々なメディアで表現し、展開する動きです。特に『エヴァンゲリオン』や『スレイヤーズ』といった作品で盛んになりました。そこでは、その作品のキャラクターが様々なメディアにおいて、同時複数的にプロデュースされ、消費者はそれぞれのメディアで語られた物語や世界観を同時的に消費するようになりました。

 それ以後、アニメやサブカルチャーの作品は、常にこうしたメディアミックスによる他メディアへの移植を意識して作られるようになりました。従って、例えばある作品がまずライトノベルで発表されたとしても、そこには最初からアニメ・ゲーム・マンガ化を意識した表現が入れられる傾向が強くなりました。さらに言えば、現在のライトノベルはアニメ的造形を最初から織り込みつつ、物語やキャラクターを描いている、とさえ言えるかもしれません。そして西尾維新もまた、まさにそうした新興のライトノベルの読者層に支持されており、アニメ的表現と親和性の高い作家である、と思われます。

 そういう意味で、Kさんが西尾維新の小説に最初からアニメ的イメージを見てとられたのは、極めて的を射たことだと思います。西尾維新氏本人がそうした意図を明確に持っているか否かは寡聞にして知りませんが、一読者として考える限りでは、小説のテキストにおいてすでに、映像的イメージを喚起するように文章が構成されている、と思えます。それはとりわけ、Kさんがおっしゃるように、キャラクター造形において顕著にみられます。そしてツンデレやおとなしい妹系、元気な後輩といった典型的なキャラクター造形を用いつつ、軽妙な掛け合いと怪異を巡るシリアスで意表を突く展開の妙が小説版『化物語』の魅力の一端を構成しているのです。

 こうした状況を踏まえたうえで、小説がアニメ的表現の翻訳だとするなら、最初からアニメとしてのみ作ればよいではないか、というKさんのご指摘についてお答えするなら、次のようになると思います。つまり小説は小説として、アニメでは表現しきれない次元を描くことで、作品の魅力をより高め、より多くのファンを獲得するための補完的役割を果たしている、と。これはアニメが主で、小説が従というのではなく、アニメも小説も『化物語』という作品、そのキャラクターや世界観やメッセージ等を、より豊かに展開し、読者や視聴者をより楽しませるために、相互に支え合うメディアだということです。そこには確かに、アニメでは描ききれなかったキャラクターの心情や状況を描写することで、その作品を追求し、堪能するという意味でのエロスがあるのかもしれません。Kさんのおっしゃるような人妻や秘書や女教師は、一般向けのアニメやライトノベルではあまり出てきません(しかし成人向けのPCゲームではよく用いられます)が、委員長や幼馴染や転校生といったキャラクターのもつ様々な側面や、彼/彼女らを巡る物語は、メディアの数だけ豊かに魅力的に描かれることができます。

もちろんそれぞれのメディアには固有のファンが存在しています。極端にいえば、マンガだけ好きな人やアニメだけ好きな人もいるでしょう。しかし作品はあるメディアから他のメディアへと展開していく中で、多くの人に知られ、一つのムーブメントとなっていきます。『化物語』の場合は、最初に発表されたのが、発表者である西尾維新の活動領域(小説)だったわけですが、それがついに(満を持して)映像化され、アニメファンにもその名が知れ渡るようになりました。そうして『化物語』という作品を巡って、多様なメディアにおいてクリエーター達が表現を競い合い、作品の質や量を深めていく。サブカルチャーにおいては、そうした表現のアリーナが無数に存在しています。今回の『化物語』のアニメ化は、そうしたサブカルチャーの特質を、非常に高いクオリティで示した事例だと思えます。こうしたメディアを越えた質の高い「翻訳」が、今後も次々に出てくることを楽しみにしています。

長くなりましたが、以上でご質問に対する答えとさせていただきます。ありがとうございました。

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