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アニメと歌と無名のコミュニティ-「delta pop」という共同体


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(文:笹野正和)

来たる12月19日に、クラブイベント「delta pop vol.10」(主宰・魚住太郎)が福岡・薬院ビートステーションにて開催される。これはアニメ・ゲームソングを中心にしたクラブイベントだが、参加者は右肩上がりで、vol.9では300人を超えたという。筆者は前回のイベントに参加した際に、大変な感銘を受け、その人気の理由の一端を知らされた。そこでは、アニメ・ゲームソングを媒介にした人々によって無数といえる自発的表現が生まれ、瞬間ごとにそのつど異なるコミュニティが生まれていたように思われた。

 

 

このイベントは、DJが選曲したアニメソングやゲームソングが流れる中、人々が夜を通して踊り明かすクラブ的な形式をとっている。しかしそこには、ただ単に集まって踊るという以上の出来事が生じているようだ。というのも、人々はそこで音楽に合わせて思い思いに体を動かすだけでなく、他の人々とのコミュニケーションをそのつど自発的に生み出しているように思われるからである。

あるアニメのオープニングが流れたとしよう。すると、それを知っている人々の間で共感の声が上がる。おそらく、各人がそのオープニング映像や名場面などを瞬時に回想しているのであろう。そして、それぞれがその思い入れの強度に応じて、自分なりの仕方で、そのアニメにおいて感じた楽しさや喜びを表現する。それらの反応は瞬時に周囲に伝播し、特に思い入れ強く熱烈に喜びを表現する者たちを中心にサークルができる。

そこである者は自分なりの踊りを披露し、またある者はそのアニメにまつわる仕草やセリフを表現する。またはコスプレやかぶり物をすることで、役に成りきる者もいる。そして彼らに同調して、同じように動作したり、はやし立てたりする者が集まってくる。こうして会場のあちこちで即席のコミュニティが生まれることになる。それはあくまで一時的で、曲が変わるに従って、生まれては消えていく無数のコミュニケーションの泡である。しかしそこでは、その瞬間ごとに非常な強度でもって、アニメ・ゲームソングを媒介にした人々の結びつきが生じているのである。

ここで非常に重要なことは、こうしたコミュニティが徹頭徹尾、観客・踊り手の瞬間的な自発性によって形成されていることだ。つまり、それはイベントの外で培われた関係の自動的な延長でも、イベントを取り仕切るDJの指示による受動的な運動でもなく、ほとんどがその作品・曲を好きで、曲がかかったことに純粋に喜ぶ人々の匿名的な参加によって生まれているのである。ここで匿名的な参加というのは、各々が「自分は誰です」「職業は何です」などといちいち名乗って、何者なのかを明らかにすることなく、踊りやパフォーマンスに入っていくことである。そして人は、その集団的パフォーマンスを共に盛り上がることによって、イベントの主役の一人となるだろう。

従って、このデルタポップにカリスマ的なDJというのはおそらく存在しえない。というのも、確かに曲を選び出し、会場の盛り上がりを誘導するのはDJの裁量によるのだが、すべてがDJのコントロールに置かれているわけではなく、一度盛り上がった観客たちは、そこかしこで自発的に自分たちが楽しむために踊り歌い飛び跳ねだすからである。そこでは従来のカリスマ的コミュニティのように、ある一人の指導者(DJやアイドル)の下で、無数の人々が統一的に動くという構図がいつの間にか崩れる瞬間がある。有名なアイドルやDJの圧倒的なパフォーマンス能力の下に、何万人もの群衆が一つの塊として集う一極集中的共同体でなく、作品を知る匿名の者たちが対等かつ複数的に表現し合う多極的共同体の無数の誕生こそが、デルタポップのもつ魅力の一端となっているのだろう。

筆者がここで連想するのを禁じ得ないのは、デルタポップ的コミュニティと、かつてのソヴィエトとの類似性である。しかし、ソヴィエトといっても、スターリン時代に代表される徹底して中央集権化され、民衆を文字通り働き蟻のように扱ったソヴィエト連邦のことではない。ソヴィエトとはもともと1905年または1917年のロシア革命のおり、一工場・農村から一地域までのあらゆる規模で労働者・農民・兵士などの手により自発的に作られた評議会のことである。それは一人の指導者から一方向的に下される命令に従うのではなく、無名の人々が一人一人、意見を表明し、議論し、合意することで共同体全体の行動を決定していく草の根の議会だったのである。

そこでは、人々は身分や職業を問われることなく、自己の主張を表現するという資格でもって、無名のまま多くの他者と交流できるという理念があった。さらに言うなら、無名の人々が無名のまま自己表現できることこそ、卓越した一部の者だけが世間に表現することを許されるというブルジョア的世界観に変わる民衆の表現様式だったはずである。この20世紀初めに生まれたロシアのソヴィエトは、残念ながら基本的生産力の不足や外国の侵攻に対応するために、すぐにより大規模で中央集権的なソヴィエト連邦の下に統合されていく。

しかし、すでに生産力が高度に発展し、外国の軍事的脅威がほとんどない現代日本において、こうしたソヴィエト的なものが再び誕生しているとしたらどうだろう。そしてそれが、個々人が自由に表現する可能性を無限に開花させているとしたらどうだろう。たとえパフォーマンスが秀でておらず、無名のままであろうとも、その無名のままに他者たちに表現でき、無条件に共同体の一員になることができる、そういう場がアニメを中心としたサブカルチャーの領域で形成されていることは疑いない。

もちろん政治・経済や生活改良への参加を主たる目標にしたかつてのソヴィエトと、現代日本のアニメを媒介にした自己表現の共同体が、質をまったく同じとするとはいえない。しかし、同時期に日本でも活発化していた社会主義運動が、民衆の集会・表現の自由や、思想・信条の自由を求めていたことを考えれば、どんな人でも参加し、場が許す限り自分の思うままを表現できる状況が可能となった現在の状況には感慨深いものがある。そうした自己表現の一つの理想形を、筆者はデルタポップというイベントにおいて感じたのだった。

そして今回、イベントには全国的シンガーであるyozuca*がゲストとして出場する。彼女がどのようなパフォーマンスをしてくれるかはもちろんだが、彼女のパフォーマンスに対して観客がどのように反応し、自分たちの表現を見せてくれるかもまた、本イベントの楽しみの一つである。アニメ・ゲームソングを媒介にして、自らも表現を楽しむ人々の共同体が、福岡を起点に、しかも福岡という枠を超えて広まることを期待している。

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09/12/17 20:53 | コメント(0) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

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