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美術作家・岡田一郎インタビュー part2



《漂白される意識》

インタビュイー:岡田一郎
インタビュアー・構成:安河内宏法
(2009年11月23日@カフェ・ベローチェ 烏丸蛸薬師店)

目が綺麗な岡田一郎さん(美術作家)のインタビュー第二弾です(第一弾はこちら)。サイトに掲載されている作品画像は、岡田一郎さんご本人からいただきました。どうもありがとうございます!

岡田さんは空間と向き合うために作品を作っていると言うのだけれど、でも、そういう風に思えない作品もありますよね。たとえば、《漂白される意識》などは、空間と向き合っている感じがしないですよ。むしろ、向き合うことなんて絶対に出来ないと主張しているかのようです。

《漂白される意識》は、「隔たり」を強調するような作品ですね。これは2003年に京都府京都文化博物館で開催された京都府美術工芸新鋭選抜展という展覧会に出品した作品です。周りには比較的オーソドックスな作品が並んでいたので、僕の作品に気づかずに素通りしたり、気づいたとしても「あれ、この展示ケースはまだ乾燥中なの?」とかって設営準備中だと思われたりもしましたね。

この作品を作る際にも、それまでと同じように、作品が展示される場所と向き合うことからはじめました。だけど、当たり前の話なんですが、博物館という場所からは、それまでの作品で扱ってきたような歴史や記憶が読み取れないんですよ。場所性はあらかじめ消されていて、外の現実世界からことごとく切り離されている。さっき場所に対する「欲求不満」の話をしましたが、この文化博物館での展覧会はその点が欲求不満だったんですよ。向き合おうにも向き合うべき場所性がない、と。じゃあ、ここと向き合うために、あえて博物館という場所から感じる外界から切り離された息苦しさや、場所が真に迫って来ないという印象を凝縮した作品を作ってはどうかと考えました。この作品は「分断」ということに関して、外界と展覧会場、展覧会場と展示ケースの関係が入れ子の相似関係になってるんです。僕の作品の中では、かなり挑発的なコンセプトの作品ですね。

展示ケースの中に扇風機を入れるだけ、というシンプルさが凄いです。

この作品を作るずいぶん前に、ガラスによって「隔たり」が生まれるということを強く実感する体験をしたんですよ。1997年頃のことだと思うんですが、ビルの15階でアルバイトしていたんですよ。荷物の番をするだけの結構暇なバイトで、窓の外を眺めていました。で、地上を見るとビラ配りしている人や道を行き交う車が小さく見えたりするんですよ。また、ゴミ袋とかが風で15階まで舞い上がってくきたりもするんです。だけど、ガラスのこっち側にいる僕は、外の音も聞こえなければ、風を体験することも出来ない。なんだか、目の前の景色なのにテレビの画面を見ているような距離感を感じたんです。そしてその時、ガラスは視覚的な情報だけを伝えて、空間を意識させる音や風を遮断するんだ、と実感しました。そうした体験と《漂白する意識》は繋がっていますね。

まるで幸福な家庭の情景を窓の外から眺めていたマッチ売りの少女のようです。ところで、《漂白される意識》って不思議なタイトルですね。

この作品には、視覚はめまぐるしく変化するのになぜだか真に迫ってこない、情報過多な現代への印象も重ねています。様々な音を重ね合わせていくと抑揚のない「サーッ」というホワイトノイズになります。様々な映像をプロジェクターで重ね合わせていくと真っ白の画面になります。とすると、世界の情報をさらに増やしていくと世界の濃淡は漂白されて、真っ白な世界になるのではないかと思って、《漂白される意識》と名付けました。

《膜》


岡田一郎

okada_r.jpg

1976年、奈良生まれ。京都市立芸術大学にて彫刻を専攻。2007年、同大学博士(後期)課程卒業。

1997年に換気扇の音を集めた《MOVING Air》を制作したのを機に、ありふれた日常環境から、新たな認識を導き出す作品を制作。《untitled》(京都・アートスペース、1999年)、《1926.9.1》 (セゾンアートプログラム・アートイング2001出品作品、東京・旧新宿区立牛込原町小学校、2001年)を通して、展示場所の場所性を取り込んだ作品を作り始め、《横断する眺望》京都・細見美術館、2002年)、《漂白される意識》(京都文化博物館、2003年)《connect》(大阪・アートコートギャラリー、2003年)等を発表。

《empty landscape #2》(ロスアンジェルス・UCLA、2003年)、《no where (surface)》(京都・アートスペース虹、2004年)、《crust》(京都市立芸術大学、2006年)では、新興住宅地をモチーフに空地の土砂を用いた作品を発表。2004年には京都芸術センターで、『connect with 60's』という60年代の文化をテーマにした展覧会の展示プロデュースも手掛ける。

これらと並行して《MOVING AIR》は《MOVING AIR '03》(大阪・saiギャラリー、2003年)、《from inside the circle》(大阪・saiギャラリー、2005年)、《MOVING AIR '08》(大阪・PANTALOON、2008年)として制作を続け、《MOVING AIR '08》発表時には、展覧会を「air-condition」と銘打って、《MOVING AIR》を通して感じ取ったイメージをサウンドインスタレーションや画像処理した写真なども用いて展示。

この時より、画像処理した写真も作品に用い始め、2009年の京都芸術センターでの展覧会『ある風景の中に』にも《exchanged landscape》を発表した。

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大阪市中央公会堂で展示した作品《膜》も《漂白される意識》に近い作品のように思えます。

そうですね。大阪市中央公会堂って外から見ると恰好いい場所じゃないですか。歴史的な建物って感じがします。だけど、中を見るとそれほど格好いいわけじゃないんです。場所によっては公民館みたいな内装になっているし、窓だってもともとの窓の内側にさらにサッシを付けて二重にしているんですよ。この場所に行ったら、建物が内側から塗り込められて皮膚呼吸出来ていないような気がしたんですよ。だからなんとか内側と外側とをつなげることができないか、と試行錯誤して作品を作りました。窓には円形に切り取ったカーフィルムを貼って、送風機の風をそこに当てています。

ただ、窓を開けることはしなかったんですよね。その意味では「隔たり」は残されたままですね。

窓を開けることは出来なかったんですよ。ただ、「隔たり」を全て開通することは出来ないにしても、多少なりとも「隔たり」を薄くしようとは思いましたね。で、そうすることによって、たとえ「隔たり」が消えることはなくても、普段は隔たっているという事実を明らかにしたり強調したりすることが出来ると思うんです。抽象的な話になってしまいますが、そんな感じですね。

例えばさっき言った《Moving Air》を作った時にはじめて、僕自身、「隔たり」を意識することが出来ました。《Moving Air》をやる前までは、おおげさに言えば、自分が生活している世界のことなんて全て分かっているという意識でいましたが、多くの換気扇の音を録音して聞いてみることで、これまで経験したことのない真に迫ってくる認識の世界を知って、そのことによって、初めて自分と世界との間の「隔たり」に気付いたんです。

とすると、岡田さんは最初から一貫して「隔たり」を解消しようとする作品を制作してきたということですか?

そういう風に言うことは出来るかもしれませんね。僕は、展示場所と向き合う場合はその場所と感覚的に一体化するために作品を制作しているんですよ。で、そういう目的で作られる作品は、作品それ自体で完結するものではなくて、環境と結びついて成立するようにしたいんです。このタイプの作品を別の場所に持っていったとしても、ひょっとしたら成立しているように見えるかもしれない。だけど、それは個人的な感覚としては、嘘をついているような気分がします。僕がやりたいのは、場所の性質を引き寄せる道筋を作ることです。見ている人が場所、あるいは広く言うと日常と向き合えるような道筋、あるいは装置を作りたいんです。それは最初から一貫しているところだと思います。

で、その道筋とか装置の作り方にふたつあるんですよ。ひとつは、音や場所の歴史など、要素を絞って世界と向き合うことで「隔たり」を解消しようとする方法です。《Moving Air》、《1926.9.1》、《connect》などがそうですね。でも、そういう方法が取れない場合がある。つまり、「隔たり」を突き抜けることが解消にならない場合、言い換えると「隔たり」が存在しているということ自体がその場所の現実を形作っている場合です。そういう場合は《漂白される意識》のように、「隔たり」を強調する方法を取っています。「隔たり」の存在を知ることで「隔たり」自体を真に迫ってくる現実として捉えようとするんです。


《empty landscape#2》

「隔たり」がその場所の現実を形作っている場合というと、例えば《empty landscape#2》などの新興住宅地をモチーフにした作品に特に当てはまりますよね。そもそもなぜ新興住宅地だったのですか?

幼稚園の頃の2年間、僕は父親の実家の古い家に住んでいました。幕末に建てられたとても古い家です。小学校の低学年からは、奈良の新興住宅地で育ちました。言うなれば、両極端な環境を経てきたんです。で、大学生の時、知り合いが僕の育った新興住宅地を訪れることがあって、「駅前から住宅ばかりが続く変な場所」と言ったんですよ。僕自身、そんなことを自覚していなかったので、これはとっても新鮮な指摘でした。新興住宅地の風景は、僕にとっては当たり前の風景だったので、変な場所だと思ったことがなかったんです。言われてみれば確かに、幕末の家は何かしら故郷らしさを感じたのに、新興住宅地の家には、故郷らしさを感じることがなかったんですよ。

もっとも故郷らしさを感じないといっても、僕は長い間、新興住宅地で過ごしていて、新興住宅地の環境によって人格形成されていて、新興住宅地と自分とを切り離すことができないですよ。歴史のある場所に憧れを抱きながらも、生産や歴史から切り離された空虚な新興住宅地に気楽さを覚えたりもします。故郷らしさの実感を持てないけれども気楽さを感じるというのは、ひょっとすると矛盾した感覚なのかもしれません。いずれにせよ新興住宅地は、僕が世界と向き合っていくために見過ごすことのできない場所だと思い始めました。そして、この環境と向き合うために制作に向かいました。

そうして《empty landscape #2》は作られたわけですね。

そうですね。《empty landscape#2》は、写真では伝えることは出来ませんが、スピーカーから犬の鳴き声が流れる作品ですね。この作品を作るにあたって、まず近所にある新興住宅地の音を録音してみました。僕にとって録音というのは、何か場所と向き合う手がかりになることが多いんです。で、その音を家に帰って聞いてみると、住宅がたくさんあるにもかかわらず、人の出す音がかなり少ないことに気づきました。まるで家の敷地ごとに空間がばらばらに分割されて、その中に人が息をひそめてこもっているかのようでしたよ。その中で、犬の鳴き声だけが、ばらばらに分割された空間を突き抜けていくように感じました。僕はこの犬の鳴き声によって時々揺さぶられる、ばらばらに分割された空間の印象を何とか切り取って手元に持って来られないかと考えて、この作品を作りました。


《Crust》


《no where(surface)》

《empty landscape#2》以外の新興住宅地シリーズには、《Crust》、《no where(surface)》がありますね。

《Crust》は《no where (surface)》をブラッシュアップしたような作品ですね。《empty landscape#2》のときは、ある場所を僕の作品の中に引用しようと考えたんです。だから、《empty landscape#2》は、ガラスで空間を仕切り、その中に地面を移築してきたんですね。この地面は住宅地の土砂を採取してきて、それを敷き詰めているんですが、敷き詰めるだけでは実際の質感にはならなない。なので、水浸しにした上で乾燥させているんですよ。そうすると、細かい粒子は表面に上がってくるし、小石は下にもぐりこんでいって、リアルな質感になります。その地面を、《empty landscape#2》では腰ぐらいの高さに浮かせて設置しているんですけど、その時、作品の中に移築してきた地面が、境界面だけの薄い殻のような物体に見えてきました。とっても不思議な感覚でした。

で、この感覚は何だろう、と思って、その感覚をもとに作ったのが、《no where (surface)》と《Crust》です。そもそも新興住宅地には、地面の下に蓄積されている過去や歴史というものがなくて、ぺらぺらな地面だけが存在する印象があるんですが、これらの作品はそうした印象と重なり合うように思えます。特に《no where(surface)》は、最初の試みということもあって、合わせ鏡の状態を作るまで、どういう作品になるのか自分でも予想がつかなかったんですよ。そして出来あがった作品を見たら、なんだか薄ら寒さを感じる怖いものを作ってしまったなぁ、と。高さ30センチぐらいの箱の上面と底面に合わせ鏡のように鏡を貼っているんですけど、中で光が乱反射しているんです。その空間の上に地面が載っているんですが、乱反射する空間と地面との物質感の対比が不思議なんですよ。ちなみに、Crustは、「パンの堅い外皮・地殻」という意味です。

 

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《exchanged landscape》

最新作は《exchanged landscape》という写真作品ですね。これは岡田さんの中では珍しい写真作品ですよね。

空間を基準に作品を作っているので、これまで写真という表現手段は、なかなか扱いにくかったんですけど、この時は目的と合致したんです。土地勘の無い場所に行ったときって、景色や音や匂いとかが、渾然一体となって自分のところに押し寄せてくるような感覚を受けることがあると思うんですけど、それに対して、見慣れた場所ではそういうことはなかなか起こらないですよね。たぶん、見慣れた場所では必要なものだけを見て、その他多くのものを気に留めずに歩いているからだと思うんです。あるいは、京都だと、よく京都観光をしている人々を見かけますが、彼らは、僕よりも新鮮な感覚を持って、ささいなことにも意味を見出しながら京都の風景を見ていると思うんです。人は見慣れることで、景色を新鮮な気持ちで見ることが難しくなっていくんですよ。僕は、見慣れた景色をなんとか初めて見るような気持ちで捉えることはできないかと考えて、このような作品を作りました。

なるほど。《exchanged landscape》は日本の風景を撮影した写真に、外国の看板を合成していますが、なぜ外国の看板だったのですか?

僕は何度か海外に旅行に行ったことがあるのですが、日本に帰ってきてからふと、見慣れた景色に旅先の景色が重なることがあります。こういう経験って誰でも少なからずあるんじゃないですかね。これは、建物の立て込み具合や空の広さ、壁の質感など、ちょっとしたことがきっかけだと思うんですけど、この時、見慣れた景色はいつもと違う新鮮さを一瞬持つんです。でも、その感覚は曖昧なもので、すぐに掻き消えてしまう。なので、この感覚を何とかキープできないかと考えたわけです。どこか分からない風景の写真を見た時、僕の経験上、人は視覚的な情報、特に文字情報を頼りに場所を推測するのではないかと思うんです。逆に言うと、見慣れた風景が旅先の風景に重なった時に、「いやいや、ここは日本ですよ」と、意識を引き戻してしまうのは看板の文字や標識だと思うんです。じゃぁ、見慣れた景色の看板や標識など、場所を特定できるものを海外のものに置き換えたら、見慣れた景色はどのように見えるのだろうと思って、この作品を作るきっかけけです。この作品は見慣れた景色を、新鮮な気持ちで見つめ直してゆくトレーニングの痕跡みたいなものですよね。

今日はここまで岡田さんがこれまで制作された作品を見せていただきました。作品によってスタイルはさまざまに変わっていますが、共通する点がふたつあるように思えました。ひとつは、作品の構成要素がどの作品においても少ないという点です。

要素が多くなると収集がつかなくなるって気がするんです。いちばん最初の《Moving Air》のときから要素は少ないですよ。身の周りには様々なものであふれかえっているわけで、その世界と向き合うには、焦点を絞り込む必要があると思うんです。それと、様々な要素を並べ立てて何かを感じさせるより、ギリギリまで突き詰めた最低限の要素の響き合いによって、新たな化学変化を起こしたいっていう思いもありますね。

あと、岡田さんの作品はいずれも、匿名性が高いですよね。画家の筆触など、作家の手の痕跡を残す作家はたくさんいますが、岡田さんの作品には手の痕跡を感じることはないですね。

確かに僕が作った痕跡はかなり意識的にぬぐい去ろうとしています。彫刻作品をもっともよく理解出来るのは彫刻家だと言うのを聞いたことがあるんですが、その人が言うには、同じ彫刻家であれば、ノミの跡とかを見て、そこに作品が作られていった時間を感じ取ることができると言うんですね。それを聞いて思ったのですが、僕が見せたいのはそういうところじゃないんですよ。作品ができるまでの時間を見せたいのではなくて、作品が展示されている時間を見せたいんです。だから、作品ができるまでの時間を感じさせる要素は極力拭い去る。音を使ったり、扇風機を使ったりするのも、展示されている時間を見せたいからだと思います。だから、作品を見てくれる人がそれぞれの時間の中で、僕の作品を体験してもらえればいいですね。

つまりは岡田さんの体験を追体験してもらうのではなく、鑑賞者個々人が岡田さんの作品に取り上げられている要素にそれぞれの仕方で反応し、作品を体験してほしいということですね。

では最後に、岡田さんは次にどういう作品を作る予定ですか?今後のプランをお聞かせください。

僕はあまり次のことを考える作家ではないので、その質問は難しいですね。ただ、今漠然と思っているのは、よく分からないものを作ろうと思っています。知識で判別しきれない良く分からないもの、不可解なものが気になるんですよ。不可解なものって、カテゴライズできなくて、意識が宙づりになってしまう気がするんですね。その時、不可解なものは、認識において、見る人ととても近い位置にあるんじゃないかって思うんです。だから、何かの部品とか化粧板とか、身の回りにある素材を用いながら、よく分からないものを作れないかと考えています。謎掛けみたいな話になってしまいますが。

とするとそれは、岡田さんにとって初めてのオブジェ作品になるんですか?なんというか、いわゆる美術らしい作品になりそうですね。

僕はあまり計画を立てて作品を展開してゆく作家ではないので、その質問は難しいですね。今は漠然と、よく分からないものを作ろうと思っています。知識で判別できそうで出来ない、分かるようで分からない、そんな不可解なものが気になるんですよ。そもそも、何かすぐに分かるものって、《exchanged landscape》の見慣れた風景と同じで、細かに観察する前に、すぐにカテゴリーに当てはめて理解した気になってしまうと思うんですよ。それって、対象をちゃんと見て感じとることを妨げてしまうことも多いと思うんです。一般的には不可解なものは、見る人の認識に留まらない存在だと思うんですけど、この観点からすると、不可解なものにはカテゴリーをすり抜けて、見る人ととても近い位置に迫れる可能性があるんじゃないかって思うんです。だから、何かの部品とか、身の回りにある素材とかを用いて、分かるようで分からない「なにか」を作れないかと考えています。かなり微妙なバランス感覚が必要になるかと思いますが。

僕は、未だに美術って何なのかもよく掴みきれていないんです。美術が世界にとって必要かどうか、誰もが納得する言葉をもっていない。例えば最近話題の「事業仕分け」みたいな場で、美術が無駄だと考える人たちに対して、無駄でないことを納得させることができるか、難しいですよね。海外では…なんて話も答えにはなっていない。その意味で、常に自問自答を繰り返している感じですよ。たぶん、必要とか必要じゃないとかいうモノではなくて、人が生きていく上で、生じざるを得ないモノなんでしょうね。今のところは、そうした自問自答を繰り返しながら、ありふれた日常の中にある物を素材に、世界に対する新しい認識を作り出す装置を作っている感じです。


大阪市中央公会堂

大阪市中央公会堂は、大阪市北区中之島にある集会施設。1913年に工事着工し、1918年オープン。外観、内装ともに意匠の完成度が高く、日本の近代建築史上重要なものとして2002年に国の重要文化財に指定された。老朽化が進んだため、1999年から2002年まで保存・再生工事が行われ2002年11月にリニューアルオープンした。現在は、コンサートや演劇・講演会などを行う施設としても利用されている。

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09/12/26 00:48 | コメント(0) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

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