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人の「小説」を笑うな - ナオコーラ@西南学院【ドネルモアーカイブ】 |
テキスト:山内 泰
作家の山崎ナオコーラさんの講演会に行ってきました(2008/7/1@西南学院大学)。文学に興味のある方なら御存知の方も多いでしょう。ドネルモでも取上げられていた映画『人のセックスを笑うな』の原作者です。福岡出身埼玉育ち、まだ20代の若い作家さんで、初めての講演だったらしく、最初は緊張気味でした。が、お話はとても面白いものでした。「小説の役目は新しい男女関係を提示すること」etcいろいろ話されましたが、何より印象的だったのは、「作者の意図なんて考えず、積極的に誤読しましょう、それこそが読書で、そういう営みのうちに『小説』は成り立つのです! 」というナオコーラさんの「小説」に対する考え方でした。
講演で、ナオコーラさんは様々な話題に触れたけれども、何度も言及したのは「小説の場所」についてでした。つまり「小説」はどこにあるのか?という問題です。黒板に図まで書いて説明していました。次のようなものです。
読者 - テキスト - 作者
↓
で、「ここ」、つまり読者とテキストの間に「小説」が生まれるのであって、作者とテキストの間のことは、まあどうでもよい、とナオコーラさんは言うのでした。つまり、テキストは作者の思想内容を伝達するメディアではなくて、読者との関係において「小説」を生むための「きっかけ」みたいなものというわけです。
そう考えるナオコーラさんは、例えば国語の問題にあるような「作者の意図を説明しなさい」的な設問に違和感を覚えていたといいます。もっとも国語は得意だったそうだから、正解(作者の意図)がわからなかったわけじゃないでしょう。恐らく「作者の意図なんかより、自分の読みのほうが面白い!」ということなのだと思います。そんな「誤読」の充実感のうちにこそ、小説は成り立つというのでしょう。
面白いのは、批評家ならまだしも、現役作家たるナオコーラさんが、そのような「小説」のあり方に自覚的だということです。今年公開された映画版『人のセックスを笑うな』についても、ナオコーラさんは作者としてノーコメントを貫いているそうです。強いていえば、「本が売れて、よかったなぁ」という感じなんだとか。ナオコーラさんによれば、映画も批評家も、これすべて「読者」のひとりにすぎないのです。
そういえばナオコーラさんは、「言いたいことがあるんですけど、言っていいですか?」と前置きし、「時代はうちらが作る!」と強く訴えていました。いきなりな感もありましたが、でも「小説」に対する彼女の考え方を踏まえれば、この発言も至極当然なものであることがわかります。過去の歴史の中で培われた「正しい答え」を現代が受け取るのではなく、まさにテキストを拠り所として、自分達の感覚・考え方を「読み」に反映させよう、というわけです。それを可能にする「テキストの力」を信じている、とナオコーラさんは言います。
では「テキストの力」とは何でしょう?講演での発言を踏まえてまとめてみるに、恐らくそれは「文字だけで構成されている」という点だと思われます。例えば文庫本に書かれている「私」は、ただのインクのしみにすぎません。テキストにおける「私」はあまりにも曖昧で、それゆえに読者の想像力に対して自由に開かれています。この自由さこそ、私達が依拠できるテキストの可能性なのでしょう。不明瞭だからこそ、想像力はむしろ刺激され、それぞれの「小説」を生み出してゆく。だから「テキストはどこから読んでもいい」とまでナオコーラさんは言うのでしょう。彼女が信じている「テキストの力」とは、読者の想像力を前提としたものでもあるようです。
そんなナオコーラさんのルーツの一つは、大学の卒論で扱った源氏物語の「浮船」にあるようです。浮舟は源氏物語第三部の中心人物の一人でありながら、テキストにはほとんど明示的に言及されないらしく、基本的に「噂」などの伝聞で語られるのだとか。「主語を明確にしない」という日本語の特徴と言われますが、「浮船」はその極端な例なのかもしれません。つまり浮船という人物は、まったく「キャラ立ち」がなってないそうなのです。
マンガやアニメ、ライトノベルなど「キャラ」文化が隆盛の昨今において、ナオコーラさんは、むしろ「キャラ立ちさせないこと」を、彼女の文学上の戦略としているようでした。そんな「文学にしかできない」「テキストの力」を通じて、彼女の作品が読者の想像力を刺激し、読者だけの「小説」を促すものであるならば、そこでの読者に求められているのは、「偉大なテキスト」から正しい答えを受け取る能力ではなく、テキストと自由に戯れる能力でしょう。
そんなナオコーラさんの思想は、代表作の中でも印象的に語られているように思います。引用してみましょう。
セックスというのは想像上のものだ。
触っているから気持ち良いのではなく、触っていると考えるから気持ち良いのだ。
(『人のセックスを笑うな』より)
「小説」というのは想像上のものだ。テキストそれ自体が面白いのではなく、テキストを通じて考えるから面白いのだ。そうやって「小説」は読者の想像に彩られ、それぞれにとって唯一かけがえのないものになっていく。そんな特別な「小説」を誰が笑えるんだ?人の「小説」を笑うな!
こんな風に、テキストを、「作者ナオコーラ」の思想が反映したものとして、つまりナオコーラさんが言ってたこととは間逆のものとして読むこともできそうです。そんな「誤読」ができるところに、テキストの可能性もあるのでしょう。
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私が講演を聴いて印象に残ったのは、山崎さんが小説をビジュアルに見せるという話をされたことでした。
普通、テキストは意味のある単語を連ねてあって、読者はそれを一字一字追うことでストーリーなり主張なりを読み取るものと思われます。しかし山崎さん的な捉え方だと、テキストはまずもってページを開いたときの視覚的効果、つまり漢字や平仮名の配分、行間、文字の埋まり具合などによって読者の視覚に訴えかけるものと考えられます。
そうしたある意味で絵本的ともいえるくらい徹底して文字を視覚・イメージのメディアと捉えて楽しむ感覚は、概念を書き連ねるためだけに手段的に文字を扱うという考え方に慣れ切っていた者にとっては新鮮でした。
作家でありながら文字の美的効果に敏感な山崎さんは、タイポグラフィーなどでフォントについて突き詰めて考えているデザイナーの姿勢とも近いように思えました。こうした点も、読者(使用者)の側で起こる効果に小説の本質を見て取ろうとする山崎さんならではだろうと思えます。
コメントありがとうございます。レビューで触れることのできなかった内容をフォローしていただけて、ありがたいです。
小説のビジュアル面について、最近の作家さん、例えばこないだ芥川賞を受賞した川上未映子さんも同じようなことを言っていたのを思い出します。ページをぱっと開いたときの、フォント、句読点の間隔、漢字・ひらがな・カタカナの割合、段組み等々、それらすべての印象も含めて「文章」なのだ、と。
書く方も、当然そのことに意識的なのでしょう。例えば、難しい漢字を避けたり、段落を多く切ったりするのも、読みやすくするために、つまり思想内容をより効果的に伝達するためになされるのではなく、むしろ「絵画的」(?)なニュアンスでなされるのでしょう。本の装丁も同様に、読者の小説を構成する契機なわけですから、デザイナーさんとのコラボも重要な創作活動の一環となるのでしょうね。
そこでは、ケータイ小説やネット上での文章とは、また違った魅力が「本のなかの文章」に認められているように思います。山崎さんがあくまで「純文学」にこだわる理由のひとつも、そこにあるのかもしれませんね。