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「とらドラ」ーコミュニケーションの桎梏と希望のはざまでー【その3】


Text:宮田 智史

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徹底した他者理解の無限のプロセスは、既存の関係を維持することのみを目的とする。でも、それは他者の変化を認めない。変化を認めるとは、既存の関係の終わりをも受け入れることだからだ。すべての溝を“理解し合うこと”で埋めればよい。そうすれば、いつまでも関係が続いていく。破綻することはない。こうした認識は『どらドラ』のストーリーを分厚く覆っている。しかし、それはもう<ゆるやかな擬似共同体>ではない。

 

こうした文脈で『とらドラ』の物語をもう一度見てみよう。物語の中盤以降、大河は自分の中に竜二への恋愛感情があることを確認する。しかし、親友の実乃梨も竜二が好きであることに気がついた大河は、あくまでも「~のために」という振る舞いを続け、自分の気持ちを抑圧する。その結果、大河は竜二から“自立”しようとするのだ。しかし、どうしても大河は、他者理解のプロセスを手放すことができない。なぜなら、自己目的化した他者理解のプロセスが、彼女の内面を強く規定しているからである。彼女は理解し合うことを断念できない。理解の可能性が続く限り、関係は維持できると信じているのだ。実乃梨も同様である。

 

しかし、こうした振る舞いにもピリオドが打たれる。実乃梨が大河に呼びかけるのだ。「ふざけるな。自分の幸せは誰にも決めさせない」と。相手のことを気遣って、自分の気持ちを抑圧してまでも、既存の関係をつづけようとする竜二&大河を見て、ようやく実乃梨は自分が維持しようとしてきた関係がすでに終わっていたことに気づく。それは同時に<理解し合うことの断念>でもある。自分では到底埋められない溝。理解し合えると思うことの欺瞞。それを「~のために」と言い訳をしながら、自分が維持したいと願う関係の枠組みを他者に押し付けることは暴力に等しい。最終的に、キャラクターたちは、こうした認識に至る。

 

ゆるやかであったはずの関係そのものが、いつしか固定化して、当事者たちを強く拘束するようになる。「超弩級のラブコメ」らしく、『とらドラ』においては、当事者間の恋愛感情を抑圧することで成立していた<ゆるやかな擬似共同体>は、個人がその暴力性に気付くことで、崩壊していくのである。このようにコミュニケーション(理解し合うこと)が希望としてではなく、桎梏と化してしまう状況を、『とらドラ』は的確に描写しているといえる。

 

それでは岡田は、<ゆるやかな擬似共同体>がいつしか桎梏へと変容してしまう状況を単に描こうとしていたのだろうか。いや。それは違う。岡田は、そうした状況化においても、まだかすかに残る希望を提示しているように思える。それがはじめに掲げた岡田の魅力。すなわち、キャラクターたちが<理解し合うことの断念>を自ら選び取ることの可能性である。

 

そんな可能性を示唆させるのが、実乃梨と亜美である。アニメの24話、実乃梨は竜二と別れた後、亜美とふたりきりになり腰を抜かす。険悪だった二人の今後をわずかに示唆するこのシーンは、断念を通じて、別の関係の回路が開かれたことを暗示するものにほかならない。<特別な誰か>やただひとつの関係からの承認を期待するのではない、キャラクターたちの成長と変化。それは、はじまりがあって、終わりがあって、またはじまりが来るような、そんな関係性のモデルを提示する。岡田の作品は、そんな関係の一瞬一瞬を、キャラクターたちの断念によって、光り輝かせてくれるのだ。(おわり)

 

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