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内省するロリコンマンガ『コミックLO』の危ういバランス(1/3)【ドネルモアーカイブ】 |
テキスト:山内 泰
『コミックLO』は、〈ロリータ・オンリー〉をコンセプトとする成人向けマンガ雑誌である(2004年創刊)。ジブリ調の表紙の印象とは裏腹に、雑誌の内容は、低年齢の少女のあられもない痴態を、(ソフトに、というよりも、かなり濃密なタッチで)描いたものが大半だ。(ここで少女とは12歳=小学6年生までのこと。中学生はロリコンの対象ではないのです。)
普通の成人向けマンガに比べ、社会通念上、はるかに風当たりが強いはずのこの雑誌が、しかし現在の日本で、とりわけサブカル層の男女に注目されている。なぜだろう。
主な理由として以下の二つが考えられる。
まず表紙をはじめとするブックデザイン。サブカル層の男女に人気のイラストレーターたかみちの描く表紙絵は、従来の成人向けマンガのイメージとは一線を画しており、女性であってもレジに持っていくのにさして抵抗がないという。まあそうかもしれない。でも、だからといって表紙絵と内容のギャップは乗り越えられまい。実際LOは、たかみちの表紙絵に惹かれて購入した読者向けに、謝罪文をうったこともあるらしい。
そこでもう一点、とりわけ注目したいのが、普段広告などに使われる雑誌の扉や見返しスペースに掲載される、編集部の主張(キャッチフレーズ)である。
「YES!ロリータ NO!タッチ」
「ロリコンは直せます」
「ロリコンに必要なのは、幼女ではなく、友人である。」
これらLO独自の(自虐的・内省的な)キャッチコピーは、LOという雑誌をひときわユニークなものにしている。面白いコピーが多く、これらLO的な主張は、現在日本のロリコンの妄想を商品・表現として流通させるための戦略的なパフォーマンスとなっているのではないか、と考えてみたくもなる。
そのことを説明するために、以下ではまず、LOに代表される現在日本のロリコン的妄想、その成立する構造を簡単に素描し、その上で、今日のロリコン的妄想が流通する上で直面せざるを得ない問題へと話を進めていこう。
【ナボコフ的ロリコン】
LOを購入する現代日本のロリコンを明確化するためには、伝統的なロリコンとの違いを明らかにするのが、わかりやすい。ここで〈伝統的ロリコン〉として念頭に置かれるのは、ロリータ・コンプレックスの生みの親、ナボコフの小説『ロリータ』(1955)である。
ナボコフの原作を映画化したキューブリックの『ロリータ』(1962)にも明らかなように、ナボコフ的(西欧的)なロリコン作品の主人公は、少女のうちにコケティッシュな女性像を見出す。現実には支配できない大人の女性を、少女のうちにより純粋なかたちで見出し、それを性的に支配しようというわけだ。〈本来であれば~なのに、それを侵犯する〉という「禁止の侵犯」図式において、ナボコフ的ロリコンのエロスは成立する。
ここでポイントは、ナボコフ的ロリコンの欲情する対象が、〈少女〉ではなく、〈少女のみかけを取った大人の女性〉である点だ。つまり、あくまでナボコフ的なロリコンは、現実における大人の女性との性的関係を充足させるべく、少女へと向かうと考えられる。(現実の女性への性衝動を前提とするナボコフ的ロリコンを無反省に突き詰めると、現実の少女を性的対象とするぺドフィリアへと至ることになろう。)
【現代日本のロリコン】
一方、現代の日本のおけるロリコンは、このナボコフ的ロリコンとは一致しないように思われる。というのも、日本では、記号そのものに欲情する感性が支配的になっていると考えられるから。次回では、まず、その構造を簡単に描くことからはじめよう。(2/3へつづく)
【updated date:2009/2/15】
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