|
|
内省するロリコンマンガ『コミックLO』の危ういバランス (2/3)【ドネルモアーカイブ】 |
テキスト:山内 泰

多くの論者が指摘するように、80年代から現在まで活躍しているロリータ系マンガ作家の多くが、手塚治の幼女表象(独特の丸みを帯びた絵柄)にエロスを感じ、影響を受けているという。つまり、手塚のマンガで欲情を喚起していたのは、〈ぷにっとした絵柄そのもの〉なのである。
(右画像は手塚『ブラックジャック』のピノコ。キャラ造形のみならず、手塚がピノコに与えたキャラ属性は、恐ろしいまでに先駆的。)
【現代日本のロリコン:過渡期について】
この手塚の絵柄に影響を受けた作家たちが、ロリコンマンガを自覚的に追求し始めたのが70年代末から80年代で、その代表的作家のひとりとして、吾妻ひでおが挙げられよう。
もっとも吾妻ひでおの発言を聞くと(AERA2006)、80年代初頭の日本において、ロリコンはあくまで、アングラとして成立し、表現力・影響力を持っていたのだという。吾妻によれば、たとえ〈幼女〉という記号への欲情であっても、その記号の背後には〈現実の幼女〉が性的対象として常に意識されていたらしい。当時、ロリコン的な記号表現は現実の少女との対応関係をなお保っており、それゆえに、ロリコンマンガはアングラとして強度をもった表現足りえたのだ、と。だから、メジャー化した今日のアキバはけしからん、と。
つまり、当時では、記号に見出された欲情が、現実の少女との対応関係において、背徳的なエロスを喚起していた。「禁止の侵犯」という点ではナボコフ的なロリコンと一致するものの、欲情の順番が〈記号→現実〉となっている点で、ナボコフ的なロリコンとは一線を画する。ここに、ナボコフ的なロリコンモデルから、日本特有のロリコンモデルへの過渡期の状況を確認することができる。
【現代日本のロリコン:記号への欲情】
やがて80年代を通じて、記号そのものに欲情する感性は、マンガの領域のみならず、日本社会全域に浸透してゆく。〈普通の女の子〉という記号がアイドル視されたおニャン子クラブを経由して、記号に欲情する感性が庶民レベルに移行したことを象徴するのが、90年代のブルセラ少女の誕生だろう。
自分の身体に価値があるのではなく、自らが帯びている「女子高生」という記号性にこそ価値がある。この構造を女子高生が見抜き、自らの帯びる記号の積極的運用を企図したのがブルセラであったと、宮台シンジは当時言っていた。宮台の指摘は、とても重要だ。ここに認められるのは、記号を身にまとうことで、はじめて性的対象として流通するという日本独自の構造である。
この日本の構造においては、少女のうちに大人の女性を見出すというナボコフ的ロリコンは成立しえない。というのも、ナボコフ的ロリコンは現実の成人女性(肉体性)への性的欲情を前提とするが、現在のロリコンたちが欲情するのは記号そのものであって、女性の肉体性ではないからである。
このような意味で、現実との対応関係を欠いたまま、いわば「明朝体に欲情する」現代日本のロリコンは、ナボコフ的なロリコンとは決定的に異なると、さしあたり考えることができよう(*1)。更に、記号の次元に留まるという点で、現実の女子高生が大好きなおっさんや、リアルにペドフィリアな方々とも、区別されるべきだろう。
ナボコフ的ロリコンから、80年代ロリコンを経て、現代日本のロリコンへ至る系譜を、本稿の問題意識から言い直せば、「禁止の侵犯」に欲情するあり方から、「記号そのもの(キャラ)」に欲情するあり方への変遷である。現代日本のロリコンは、〈現実の少女〉にではなくて、〈「少女」という記号〉そのものに欲情する、というのがポイント。
だから、現在日本のロリコンは、「禁止の侵犯」による背徳感にも、エロティックな魅力をほとんど感じないだろう。LOに掲載されるマンガの多くが和姦であって、レイプ系・鬼畜系が少ないことからも伺えるように、LO読者が欲情するのは、記号化された少女(キャラ)のラブラブな性生活である。
そう考えると、記号が性的対象となっている日本において、LOのようなロリコン・マンガはたやすく流通するようにも思える。だが、実際にLOに対する風当たりは強く、LOは紙面で度々存続の危機を訴えている。おそらく、次のような理由からだろう。
【構造と反応のズレ】
構造としては、現実ではなく記号に欲情する今日のロリコン的感性は、しかし実際の日本社会では、あくまで現実との影響関係において捉えられてしまう。つまり、ロリコンは〈現実の少女が好きだから〉LOを読んでいる、と捉えられてしまうのだ。
これはLO読者からすれば誤解も甚だしい、のかもしれない。が、一般社会から見れば、なんだかんだ言っても、LO読者はぺドフィリア予備軍と認知されてしまうだろう。これは、なんとも困った状況である。(さらに3/3に続きます。)
***
(*1):ちなみに「記号に欲情する」のは、オタクやロリコンだけの話ではないだろう。「熟女が好き」っていう男性も、「男は収入と学歴」とか思ってる女性も、みなさん、まずは「熟女」「高学歴」といった記号に萌え、それをたまたま現実の人間に適用しているだけなのだ。このように、実体よりも記号が先行するあり方へと移行したことが、つまりは消費社会になったということだと思われる。
【update date 2009/2/15】
| 内省するロリコンマンガ『コミックLO』の危ういバランス(3/3)【ドネルモアーカイブ】 | 内省するロリコンマンガ『コミックLO』の危ういバランス(1/3)【ドネルモアーカイブ】 | 別冊ドネルモ/トークライブ 《「ヘタリア Axis Powers」みんなで世界会議 in 福岡》 | 別冊ドネルモ 《ぼくたちの志村貴子》 TalkAround part3 | 別冊ドネルモ 《ぼくたちの志村貴子》 TalkAround part2 | [09.09.20] 別冊ドネルモ トークイベント 《ぼくたちの志村貴子》 |
トラックバックURL: http://donnerlemot.com/mt/mt-tb.cgi/450
一体これらの文章は何のために書かれているのか。「ロリコンマンガ」が題目として上げられ論評がなされている。テキストの主は、たぶんに勉学によって蓄積をしたのであろう多彩な語彙を駆使して語る。では、何のために、時間を費やして「ロリコンマンガ」のためにキーをたたくのか。よくわからない。ふつうは好意をもつから接触をする。従って、テキストの主である山内泰はロリコン趣味である、ということになる。それとも、出版元から報酬でも受けているのか。でなければ、誰も労はしない。どんなにきらびやかに語彙の豊富さや知識を見せても、根拠のない文章は空疎である。
「現在のロリコンたちが欲情するのは記号そのものであって、女性の肉体性ではないからである。」と解析をするが、だから、この解析は、一体何のために,誰のために。テキストの主の山内泰の満足のためか。一文の得にもならない。ネット上のテキストは公開される目的で書かれているとすれば、山内泰はロリコン趣味なんだろう。「ドネルモは、福岡発の文化系サイトです。」だそうだが、迷惑である。福岡の文化はロリコンか。
林さま
レビューを書いた山内と申します。
コメントありがとうございます。
レスポンスが遅くなって失礼いたしました。
ご指摘の点につき、私なりにお答えしたいと思います。
「一体これらの文章は何のために書かれているのか」とのことですが、まずは自分のため、そしてこのレビューの扱う問題意識を共有する人々のために書かれております。
同時に、レビューで述べたような問題意識を、ロリコンに興味のない方々、更には〈ロリコン趣味なぞ唾棄すべきもの!〉とお考えの良識ある(?)方々に対して、訴えたいとの思いもあります。
コメントからお察しするに、林さんの抱かれた違和感は、〈ロリコンマンガについてテキストを書くこと(=文化として扱うこと)の意味〉がわからない、ということではないかと推察いたします。まずはその点について。
例えばロリコンを主題とした作品は、古今東西、大して珍しいわけではありません。ゲーテやノヴァーリスといった古典から、レビューでも触れているナボコフ、日本であれば鴎外などその典型ですし、最近では芥川賞をとった安部和重『グランド・フィナーレ』まで、テーマとしては、ごくありきたりなものと言えるかもしれません。
もっとも、ここで列挙したのは、あくまでロリコンをテーマとした小説(文学)ですし、林さまもそのあたりは踏まえてのご発言かと存します。となれば、文学は「文化」だから問題ではなく、マンガだから問題なのだ、との違和感を抱かれたのでしょうか?(例えば、私がレビューでマンガではなく文学を扱っていたならば、コメントで書かれたような違和感を抱かれなかったのでしょうか?)
あるいは、私も穿ちすぎかとも思うのですが、文化であれ何であれ、ロリコンは問題だ、との違和感でしょうか?もしくは、理解しがたいロリコン趣味について言及されるのは迷惑だ、との違和感でしょうか?
もし、そうした違和感を抱かれてのコメントでしたら、ちょっと困ってしまいます。というのも、そうした違和感を抱かれるあり方こそ、私がレビューで問題にしたかった、いわば仮想敵としたあり方だからです。
そうでないことを祈りつつ(笑)、このレビューで私が問題化したかったことを、以下に述べます。それを通じて、「何のために書かれているのか」といったご質問に答えることになるかもしれません。
ロリコン趣味が問題とされるのは、恐らく、それが幼女を対象とした性犯罪と密接に関連しているように連想されるからだと思います。
しかし、私がこのレビューで問題化したかったのは、
①現代のロリコンとペドフィリア(ロリコンマンガと児童ポルノ)は、質的に異なること
②「暴力(性的)メディアが犯罪心理を形成する」という考え方(強力効果説)は、その正当性が学問的には否定されていること
③にもかかわらず、実際の事柄と乖離した〈ロリコン=ペドフィリア=犯罪者〉という根拠なき連想が、マスコミや世論を通じて、一般化されていること
④そうした日本の現状の中では、LOというロリコンマンガは独自のスタンスで、自らの存立基盤を確保しなければならないということ
以上の4点です。レビューは全3回となっており、これまでのレビュー(1/3&2/3)で、①の内容を長々と説明してきたのでした。②~④については、3/3で扱っております。
日本の場合、和歌山のカレー事件の事例に象徴されるように、マスコミ主導のイメージ形成が刑事裁判に影響を与えるという、法治国家とは思えない状況があります。〈林真須美被告が犯人でなければ、それは裁判が間違っている〉とされてしまう状況があり、そして実際に、状況証拠だけで、林真須美被告は死刑判決を受けたわけです。推定無罪という近代法の大原則が無効化されているわけで、このことは、例えば、痴漢の冤罪問題を扱った映画『それでもボクはやってない』でも問題化されています。
とりわけ近年の日本の世論には、実質犯罪率は低いのに、治安への不安度は更に高まり、更なる厳罰化と管理化を求める傾向があります。不安解消のために、「~と同じようなものだから」禁止・処罰を求める傾向は、冗談ではなく、現実問題として高まっているのです。
言うまでもなく、ペドフィリアは最悪だと私は考えます。児童ポルノがいくら「表現の自由」だと言っても、許されるものではありません。現実の被害者がいるからです。
ただ私の考えによれば、ロリコンマンガは、それらとは別の話だということです。それは、「同じようなもんだろう」で片付けていい問題ではありません。
大げさに聞こえるかもしれませんが、ロリコンとペドフィリアが「同じようなもんだ」で片付けられてしまうならば、それは恐ろしいことなのです。もし「同じようなものだ」で等値されてしまうならば、ロリコンだけではない、ショタコンや美少女ゲーム愛好者、浮浪者や無職のニート、同性愛者など、いわゆるマイノリティは、マジョリティによって、いつ犯罪者と等値されるかわかりません。そんな社会は、地獄でしょう。
「同じようなもんだ」という連想は、治安への不安感から、自分には理解できない他者を、容易く犯罪者と結びつけ、社会から排除しようとします。上に指摘したように、実際の犯罪率や犯罪との影響関係など度外視され、単に不安感だけが先行し、根拠なき連想に基づいて法規制がなされていくわけです。
それは実に馬鹿げた、しかし現実に起こりうる脅威だと、私は懸念しております。
昨年7月に衆院が解散されたことにより、児童ポルノ法改正(改悪?)案は、廃案にはなりました。詳しくは3/3で扱っているので詳述しませんが、内容的にかなり問題がある改正案だったことは、多方面で指摘されています。「同じようなもんだ」という偏見に基づく不条理な規制に対して、有識者たちはやはり異を唱え、問題化しているのです。
私のレビューが訴える問題意識も、そうした社会な問題意識とリンクするものと思い、現在のドネルモに再掲してもらった次第です。
以上が、「何のために書かれているのか」というご指摘に対する、一応の回答となりますが・・・、読み返してみるに、2/3の段階では、林さまの違和感はごもっともな気もしております。
本レビューの3/3を早急にアップしてもらいますので、そちらもぜひ、ご参照くださいませ。
更には、林さまの抱かれた違和感に対して、こうしたかっちり系の文章でお応えすることが、果たして私の訴えたい問題意識の共有につながるのかどうかも、甚だ心もとなく思われます。しかしながら現状では、こうしたテキストのかたちを取らざるを得ないのも、また事実です。
最後に。
私のレビューは、ドネルモで扱われている記事の、ごく一部にすぎません。ドネルモ一般の見解ではありませんし、無論、福岡の文化一般の話でもありません。〈わかりやすい一般化〉は、場合によっては必要ですが、しかし多くの誤解も招きがちです。ご理解いただけたらと思います。
長文、失礼いたしました。
お付き合いくださり、ありがとうございます。
山内 泰
「秘書にまかせておりました」的な答えですね。つまり、他人事で世界が動いている。私はと言えば、ムカッときたんでしょうな。その日たまたま虫の居所も悪くて最悪であったろう。
『(*1):ちなみに「記号に欲情する」のは、オタクやロリコンだけの話ではないだろう。「熟女が好き」っていう男性も、「男は収入と学歴」とか思ってる女性も、みなさん、まずは「熟女」「高学歴」といった記号に萌え、それをたまたま現実の人間に適用しているだけなのだ。このように、実体よりも記号が先行するあり方へと移行したことが、つまりは消費社会になったということだと思われる。』こんなふうに一端に現実とかかわっているかのような文章を書いたらいけないし、エロ業界とも接してから後に書いてみたらどうですか。気をつけないと変なひとに闇に葬られるよ。
余所事の話しを引合いに出し、語るという、実学のないひとが多すぎる。
「記号」という単語を使うなら、最高学府まで収めたのだからひとのため、世のため、国のために役立てて下さい。親御さんも喜ぶだろう。