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内省するロリコンマンガ『コミックLO』の危ういバランス(3/3)【ドネルモアーカイブ】 |
テキスト:山内泰

昨年、児童ポルノ禁止法(1999/2004改正)の更なる改正案が検討された。既に発売されている児童ポルノの単純所持への罰則適用を盛り込んだことで議論となった2008年の改正案では、現実にモデルや被害者が存在しない仮想児童ポルノ(バーチャル児童ポルノ/ マンガやCG、イラスト、アニメなど全て)をも、三年後をめどに禁止対象として検討するという。LOでは、登場する少女のほとんどが12歳以下なわけだから、このコードに完全に抵触する。
(右画像はLO.vol.25から。編集部からの〈主張〉のページは、タバコの吸い過ぎ注意を模したものから、日本在住のアメリカ人研究員からのレビュー[という見かけ]を取ったものなど、多彩なデザイン。)
現実の被害者がいないにもかかわらず、表現の自由が規制される原因として挙げられているのが、性的メディアが性暴力を喚起するという「効果説」である。だが実は、効果説の有効性は心理学や刑事訴訟の現場ではほとんど認められていない。にもかかわらず、実際には、殺人事件等を惹起したとの理由から放送・出版が自粛されたアニメ・マンガは少なくない(例えば、昨年16歳少女が鉈で父親を殺害した事件の際に、『ひぐらしの泣く頃に』が放送自粛した件)。
ここでは、ポストモダン化した社会構造では見出されないはずの記号と社会の対応関係(因果関係)が、報道メディア等によって、事後的に虚構されている。つまり現在の日本では、すでに乗り越えられたはずのモダンの図式〈記号と現実の対応関係〉が、社会的反応のレベルでは、後付け的に擬制されるものとして、誤った仕方で復活してくる状況にあると考えられる。これを偽モダン的状況としておこう。
このように、キャラに欲情する社会(ポストモダン)の構造と、実際の社会の反応(偽モダン)とが、現代日本ではズレてしまっている。本稿の理解するところによれば、現代日本において、ゲームやマンガに描かれた少女キャラに性的に欲情する(本稿の言う)〈ロリコン〉と、現実の少女に欲情する〈ペドフィリア〉とは必ずしも重ならない。LOも指摘するように、ロリコンマンガの読者の大半は、現実の少女とはまったく別のものとして、ロリコンマンガのキャラを享受しているのが実状と思われる。
だが、記号への欲情を現実の少女へとすり替えてしまうロリコンも、中にはいるかもしれない。そしてそういう推測が立ってしまう以上、少女にまつわる不幸な事件が発生した場合、LOは間違いなく窮地に追い込まれることになる。
ポストモダン的な社会構造と、偽モダン的な実際の社会反応とのズレ。このズレに対して、LOは、危ういバランスの上に自らを位置づける。LOは、記号へのロリコン的妄想を成立させてしまうポストモダン的な社会構造と、記号と現実に因果関係を認めようとする偽モダン的な社会反応のレベルの双方に目配せをしながら、自らのスタンスを位置づけようとして、以下のような様々な主張を、積極的になすように思われるのだ。
(上画像は、左から、LO.vol.7,vol.5,vil.18から)
このように、LOでは、編集部からの読者へのメッセージという体裁で様々なキャッチフレーズやコメントが掲載される。ここでLOが主張しているのは、
といったメッセージで、これらが様々なデザインを通じて視覚化されている。
これらのLOの主張は、一見すると、読者を「良識あるロリコン」へと啓蒙しようとするものであり、恐らくそのような機能も狙ってはいるのであろう。また時に自虐的すぎる内省ぶりが、ネタとして面白がられてもいるのだろう。
だが同時に、「記号への欲情」が成立する条件と、「記号への欲情」が商品(表現)として社会的に成立する条件を、危ういバランスで媒介する何かを、LOは必要とする。ポストモダン的状況では、記号への欲情は否応なく成立してしまう。その記号がたまたま〈少女〉だった現代日本のロリコン、その性的妄想を扱う雑誌は、記号と現実の因果性を虚構する社会の反応に対して、自らの表現を生き延びさせるための流儀を考え出さなければならない。
だからLOは、「自分たちが扱うのは〈少女という記号〉なのだから、間違っても現実の少女に手出しはしないように!」という、LO読者にとっては見当違いの訓戒を、あえて読者に説く見かけを取るのだろう。それは、ロリコン的妄想の流通回路を確保する上で要請されるパフォーマンスなのではないか。
現実と虚構を峻別する理性的態度に訴えるLOの内省ぶりは、時として自己弁解的・自己憐憫的な印象を与える。だがそうした免罪符的な機能とは別に、これらの主張は、ロリコンの性的妄想が流通しうる回路を保つ点で、重要な機能を担っていることを看過すべきではないだろう。そのようにLOをめぐる状況を捉えてみると、LOの内省的なパフォーマンスが、優れて戦略的なものに思えてくるのだ。
【update date 2009/2/15】
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こんにちは。面白い記事でした。思ったことを書きます。
まず「LOの内省ぶり」は、読者に「現実と虚構を峻別する理性的態度を訴える」機能と「性的妄想が流通しうる回路を保つ機能」のほかに、単純に雑誌自体をシャレで流通させ、読者層を広げるということがあるのではないかと思いました。掲載された画像を見て、単純にシャレが効いているな、とか、おしゃれだな、と思いました。ディープなロリコンだけじゃなくて、サブカル好き(ロリコン予備軍?)が「シャレ」で買えるようにするための販売戦略上ではないでしょうか。間口を広げる機能を持つ、とでもいいましょうか。
と、ここまで書いた時点で文章を読み返してみるとsagemodeさんが文章の最初に似たようなこと書いていたのを発見しましたが、せっかく書いたのでこのまま残しておきます。以下続きます。
それともうひとつ。これは妄想ですが、ひょっとすると「LOの内省ぶり」は「現実と虚構を峻別する理性的態度を訴える機能」とは全く逆の機能を、つまり「記号と現実とをつなぎとめるための媒介」という役割もあるのではないかと。
文章には、ナボコフの「ロリータ」、女子高生のブルセラ、そしてLOの順で出てきます。ナボコフの「ロリータ」では少女の中に女性の象徴が看取され、ブルセラでは「顔写真付きの制服」といったように、女子高生の痕跡が看取される。そしてLOにおいて看取されるのは、現実との対応関係を欠いた記号である、と。言うなれば、現代日本のロリコンは、現実と記号との距離がどんどん開いてきているよ(だからペドフィリアと一緒にしないでね)ってお話だと思いました。
とすると、現実と距離が開き、誰も現実と混同しないような記号に対して、「現実と混同しないでよ」ということは、ひょっとすると、君たちが見て記号は現実と対応しているものだよということを暗に示し、記号の内容を強調するメッセージ機能を持つのではないか、なんて思いました。
と、ここまで書いた時点であらためてamazonでLOの表紙を見てみると、あからさまに現実と対応関係を持つ絵が表紙に描かれていたので、僕の説は崩壊しました。現実との対応関係を欠いてなんてないじゃん、と思ったのですが、せっかく書いたので続けて質問しておきます。
Sage-modeさんは文章中、ナボコフの「ロリータ」(あるいはペドフィリア)との対比で日本のロリコンを定義されています。それは文章を読む限りでは、成功しているように思えました。が、LOの表紙を見ると、どう見ても現実と対応しているように感じられました。なので、sage-modeさんの上記の定義、もしくは「現代日本において、ゲームやマンガに描かれた少女キャラに性的に欲情する(本稿の言う)〈ロリコン〉と、現実の少女に欲情する〈ペドフィリア〉とは必ずしも重ならない。」という主張が少し怪しくなってきたのですが、どうでしょうか?表紙絵と内容とにはギャップがあると書かれているので、中面の漫画においては「現実と対応関係を欠いた記号」が描かれているのでしょうか・・・?
さらに言えば、冒頭に書かれているように、ロリコンの対象が12歳(この年齢は要するに小学生までってことですよね?)と明確に規定されている点は、現実との対応がはっきりと見て取れると思うのですが・・・?
どうも僕が「記号」の意味を取り違えている気がしないでもないですが、以上、質問です。
たなかさん
どうも。コメントありがとうございます。
現代日本のロリコンは記号そのものに欲情していてる、というとこに、違和感を感じられたのでしょう。
記号と現実の対応関係について、私の書き方が適切でなかったようです。具体的には(2/3のテキストの)【現実との対応関係を欠いたまま、いわば「明朝体に欲情する」現代日本のロリコン】のとこですね。
すいません。わかりやすく言い直してみます。
「少女という記号」といっても、絵柄は、謎の未確認生物ではなく、あくまで「少女」のみかけととってるわけで、その意味では「少女という記号」は現実との対応関係に基づいています。
むしろポイントは、それら記号が何をイメージさせるか、何を指し示すのか、という点です。
たなかさんは、LOの表紙(たかみちの絵)に、記号的なものよりも、むしろリアル志向を感じられたとのこと。だから、LOは現実との対応関係がやっぱりあるのでは、とのご意見ですね。
そういう風にとらえることもできると思います。でも、恐らくそれは、LO的なロリコンからすれば、異端な読みではないのかな、と私は思うのです。というのも、ロリコンにとって、たかみちの絵は、実際の現実ではなくて、理想化されたユートピアとして受け取られているように思うからです。
その際、(たかみちの絵柄という)記号が(再)表象しているのは、実際の現実ではなくて、記号が独自に構成した「現実」です。それを、ボードーリヤールにならって「ハイパーリアル」と言ってもよいかと思います。
今での話を端的にまとめると、
「絵柄のぷにぷに感は、現実のぷにぷに感を上回っていく」
ということになりましょう。記号が現実を超えて、ハイパーリアルを独自に構成し、それがものすごい魅力をもってしまう。
で、LO的なロリコンにとっては、ハイパーリアル(たかみちほか、LOの描く少女)のほうが、実際の現実(実際の少女)よりも、はるかに魅力的でアクチュアルな(だけど現実にはありえない)ものとして、憧憬の対象となっているのではないかな、と。
そういう事態を指して、「現実との対応関係をもっていない」と書きました。
ついでに言えば、「いわば明朝体に欲情する」というのは、内容(意味・実際の肉体性)にではなくて、形式(絵柄・記号性)に欲情するというニュアンスです。(引用カッコなのは、この表現が東浩紀の『不過視なものの世界』だったと思いますが、そこから持ってきたからでした。)
つづきです。
たなかさんが最初に指摘されている点、LOの主張は、サブカル層がシャレで購入できるような戦略だ、というのは、まさにそのとおりでしょうね。私も、その戦略にはまった一人ですし。
ただ、やはりそこには見逃せない問題があるのでは、とも思ってしまいました。テキスト後半部を補足することにもなりそうなので、以下続けます。
ハイパーリアルのユートピアで欲情する構造にある以上、現実の少女に欲情する(あまつさえいたずらする)なんていうのは、LO的なロリコン把握ではほとんどありえないことなのではないか、と思います。私の実感としても、たかみちの絵のほうが、圧倒的に現実の子よりかわいい、というか、完全に別モノ、別ジャンルですね。
だからLOの内省的な主張は、読者にとっては、「え、誰に言ってるの?」という感じで、あまり実感を持って迎えられてないだろう、と思うのです。
でも、それでもなお、「yesロリータ、noタッチ」とLOが言わざるを得ないのはなぜだろう。そこには社会的な強制力が働いているんじゃないの、というのが私のテキストの本旨でした。
ロリコン犯罪が起これば、LOは窮地に追い込まれる。犯罪者がLOを購入していたりしたら、もう完全にアウトでしょう。
でも、美術館でルーベンスの『レウキッポスの娘たちの略奪』あたりを見た男がレイプを犯したとしても、レイプ防止策として、ルーベンスの作品が閲覧禁止になることはないでしょう。その男の頭がおかしい、で片付いてしまう。
しかし、男が見たのが三流のポルノ雑誌だったら、その雑誌は廃刊に追い込まれるかもしれない。
この二つの例で、ルーベンスと三流ポルノ雑誌に具体的な差はありません。そこに働いているのは、単なる相関関係を因果関係とみなしてしまう社会の擬制力だ、というのが私の意見です。そして、そこで擬制の原動力となっているのは、なんのことはない、単なる偏見でしょう。
児童ポルノ禁止法の改正議論も、このタイプの偏見に基づくもののように私には思えます。「好き/嫌い」の問題と「良い/悪い」の問題をごっちゃにしてるのに気付かず、感情のレベルで一方的に禁止しようとする。それは、さすがにどうか。
LOのやってることは、そういう困難な状況に対する、ある種のカウンターなんだよ、と。まあ、あんまりヒロイックに持ち上げるのも、それはそれで問題なのでしょうけれど。
どもども。
とても分かりやすく解説していただき、ありがとうございました。納得しました。
思えば日本人は、別にロリコンに限らず、「ハイパーリアル」に恋するのが上手なのかもしれませんね。宝塚とか(あともうひとつ例を挙げれば説得力が上がるのは重々承知なのですが、何も思いつきません)。
sage-modeさんは、Loの主たる読者層が記号と現実を峻別しており、それゆえに記号に欲情するロリコンは現実少女を犯罪の対象とするペドフィリアとは明確に区別される旨の主張を、ボードリヤールを援用しつつ展開されているように思えます。しかし私が思うに、ボードリヤールの主張の根幹は、sage-modeさんが前提としている記号と現実の二元論がもはや成り立たないとするところにあるのではないでしょうか。
つまりより深刻なのは、現実の少女もまた、「現実の少女」という記号として、その生身の身体を携えたまま流通しているという事態なのです。とすれば、表象としての記号に対してなされている記号操作とまったく同じ次元で、生身の少女も「操作」されてしまう危険があるということなのです。もしその両者に違いがあるとすれば、それは記号の種類の区別でしかない。一方は活字(明朝体?)なりインクのシミという記号であり、他方は幼い少女の生身の身体という記号でしかない。
sage-modeさんは、読者にとって前者の記号の方がはるかに魅力的であって後者の記号はとてもそれに追いつけないと仰っているようにも見えますが、しかしそれは単に記号フェチの趣向の問題(倒錯の行き先の違い)であって、前者の記号から後者の記号へと連合関係を構成する人だって幾らでもいるはずだし、それを内側から遮断する記号の論理を構成するのは論理的に不可能でしょう。
そうした現実的な危険があるからこそ、Loは、両者の記号をやはり区別しようよ、と訴えているのではないでしょうか。そしてそうした危険があるからこそ、ユネスコなりの国際機関は「ロリコン」をめぐる記号操作を均並みに禁止しようとしているのではないでしょうか。しかしそうした人権派が見落としているのは、そうした記号狩りをもってしても、全てのものが記号化し、そしてそれが勝手に連合関係を取り結んでいく、そうした記号的現実に対しては敗北せざるを得ないと言うことではないでしょうか。
ロリコンKKKさん
どうも。コメントありがとうございます。
ボードリヤールによれば、そもそも記号と現実の二元論が成り立たないとのこと。そうか。すべてはハイパーリアルなわけですもんね。失礼しました。
「ハイパーリアル=二次元少女(という記号)」と「現実の少女(という記号)」という私なりの対比も、ボードリヤールの論ではあまり意味をなさないのでしょうね。すべては記号の生み出すハイパーリアルであって、「両者に違いがあるとすれば、それは記号の種類の区別でしかない」ということでしょうから。ご指摘ありがとうございます。
ただ「記号の差異しかない」状況に対して、KKKさん(ボードリヤール?)と私では、意見が分かれるようです。
KKKさんのご指摘によれば、その差異は「単に記号フェチの趣向の問題(倒錯の行き先の違い)」でしかない。だから「二次元(という記号)」か「現実(という記号)」か、みたいな記号の区別にはあまり意味がない。しかも記号は勝手に連合関係を結ぶのだし、その連合は止めようがない。だがらロリコンも、ともすればペドフィリアに移行するし、両者を明確に区別なんてできない、ということでしょうか。
たしかにそうかもしれません。そしてそうであれば、ロリコンのみならず、ありとあらゆる人は、ともすればペドフィリアへ移行するのでしょう。「現実の少女(という記号)」と他の記号との間には単なる差異しかなく、それらは勝手に連合するのだから。それは、たしかに深刻な事態です。
でもどうでしょう。KKKさんの言う「単に記号フェチの趣向の問題」である記号間の差異は、私には、むしろ重要な問題のように思われます。
〈現実-記号〉といった価値のヒエラルキーが前提となっている状況とは異なり、全面的に記号化し、記号の差異しか認められないからこそ、今日の私たちは、記号の差異を細分化し、それらに対して非常に鋭敏なセンスを養っている(養わされている?)面もあるのではないでしょうか。
つまり、記号という同一次元での差異だからこそ、記号間の区別はより自由に、厳密になされるのではないか。そしてLO的ロリコンとペドフィリアも、「二次元の少女(という記号)」と「現実の少女(という記号)」という記号レベルでの差異として区別されるべきで、だからこそ、それらは全く別ジャンルだと言いうるのではないでしょうか。二次元ですら、萌え絵に欲情する人は、劇画調の絵柄では欲情できないわけで、いわんや「現実の少女(という記号)」おいておや、という感じです。
だから、記号の区別は、受け手のセンスのレベルで峻別されてしまうもので、やはりLoの読者には自明なことのように思います。にもかかわらず、なおLOが「記号を区別しよう」といわざるを得ないのはなぜか。
その点、KKKさんのおっしゃる記号の勝手な連合への危機感よりも、むしろ、〈記号と現実〉の因果関係を虚構してくる社会に対するパフォーマンスなのでは、と私は思ったのでした。
ついでに言えば、記号の差異に対する鋭敏なセンスこそ、記号側の勝手な連合関係に抗うモメント、もっと言えば日本総ペドフィリア化を妨害しているモメントなのでは、と楽観的に思ったりするのですが、いかがなものでしょう。
sage-modeさん、丁寧な応接ありがとうございます。これはきわめて今日的で焦眉の問題だと思うので、もう少し、応接におつきあい下さるとうれしいです。
私も、生身の身体に対する犯罪を抑止するために表現を規制せよという主張には反対です。しかしながらそこには単に反対すればよいという楽観論ではどうにもすまない現実があるのもたしかだと思っています。sage-modeさんは、二次元ロリコンとペドフィリアロリコンのあいだには、厳密な記号の運用の壁があって、それはそう簡単に乗り越えられない性質のものだ、と主張されているように思います。
たしかに、最近の児童ポルノ単純所持に関する議論に見られるように、お父さんが自分の娘の入浴の写真を所持していたからといって犯罪に問われるのは不合理だ、という主張はもっともです。つまり幼女の全裸写真であっても、その使用法、そのコンテクスト、その語用論の違いは強固なものがあります。その写真をお父さんが机の引き出しに入れているのと、それを誰かが入手してウェブで公開するのとでは、その使用法はまったく違っており、その記号プラクシスに決定的な違いがあるのはたしかだと思います。このかぎりで一億は総ペドフィリアではありません。
しかしたとえば、二次元ロリコンと、生身の少女をたとえば着エロといったしかたで写真を撮って販売することの差異についてはどうでしょう。どちらもポルノという点ではまったく同じ文脈であり、その「ユーザー」からみれば、性的対象の二次元記号という点ではまったく違いがありません。ただ前者に被害者はなく、後者には確実に被害者がいる。その生身の少女を記号として積極的に売り出しているのが、その少女の肉親であるという現実は、一億ペドフィリア化を不気味に予感させるものではないでしょうか。
sage-modeさんは、漫画絵への欲情と生身の少女への欲情のあいだには決して乗り越えられないデジタルな壁があるという主張をされているように思えますが、しかし中間領域は幾らでもあり得るのです。現実の少女のビデオや写真、そしてアイドル化したその少女の漫画による二次制作。その記号としての少女絵をもとにしたポルノ小説。そのテクストをもとにした漫画ポルノ。そこにはアナログな階調がある。どこからが被害者が存在し、どこからが存在しないのかがはっきりしない。こうしたきわどい記号運用があまりにも発達し尽くしているからこそ、日本は外国からペドフィリア天国だと見なされているのです。
記号の差異、その運用法についての鋭敏なセンスこそ、日本総ペドフィリア化を抑止する唯一の可能性だという主張には賛成です。しかし現実の記号シュミレーションは、その運用法の差異の微細な侵犯からこそ、その性的興奮のエネルギーを引き出しているように思えるのです。いかにしてその鋭敏なセンスを保持し、その侵犯を抑止するのか、それを記号運用の内部でいかにして成し遂げることができるのか、それは喫緊のいまそこにある課題であり、そんな侵犯はそもそも事実として存在しないのだ、それはたんなる社会の偏見なのだと主張するsage-modeさんの楽観的な主張にはどうにも完全には同意できないのです。
続きです。sage-modeさんは、たなかさんへの応接で、「その際、(たかみちの絵柄という)記号が(再)表象しているのは、実際の現実ではなくて、記号が独自に構成した「現実」です。」と主張されています。つまりこれを私なりに解釈すると、いわゆる生身の「現実」と漫画絵ロリコンのあいだには表象関係(写像関係)が存在せず、記号がそうした表象から無関係に独自のシュミレーションシステム(現実性)を構成しているということだと思います。
私もそうだと思います。しかしそうだとすると、たなかさんが疑念を示されているように、それならばなぜ、それは十二歳以下の少女という記号形態を取らなくてはならないか、が説明できなくなるような気がします。つまり現実との一切の写像関係が存在しないと仮定すると、Loに掲載されている「幸福」なポルノは少女でなくても良いことになる。動物園の動物の子供との「幸福」な応接であってもいいし、老婆とのエロティックな妄想の全面展開でも良いことになるでしょう。しかしLoは一貫してそうした表象をとらず、幼女に特化している。そこにはいかに否定しようとしても、現実の少女との写像関係が存在するのではないでしょうか。
つまり、sage-modeさんがおっしゃっているように、「ハイパーリアルのユートピアで欲情する構造にある以上、現実の少女に欲情する(あまつさえいたずらする)なんていうのは、LO的なロリコン把握ではほとんどありえないことなのではないか」としても、問題はそこにあるのではなく、そうしたLo的なロリコン表象が生身の少女と写像関係を取り結んでいるということなのです。
少女の着エロ写真に欲情する記号フェチは、生身の少女という記号には、まったく欲情しないかも知れない。しかし写真と生身のあいだには写像関係が存在する。そのモデルとなった少女が、たとえ直接の欲情の対象とはならないとしても(そういう想定はかなり非現実的なように私には思われますが)、問題はその少女が自分のイメージに対するポルノ的な記号操作の影響から決して無縁ではあり得ないということなのです。
Loの読者ががたとえ生身の少女(という記号)にまったく欲情しないとしても、欲情の対象となるイメージが生身の少女との写像関係を取っているかぎり、その欲情は生身の少女に対するあるひとつの意味作用を、つまりは間接的な記号操作を果たしているということなのです。写像関係は記号の指示作用そのものです。二次元記号に対する指示関係は、そうすると最終的には生身の身体記号に対する指示関係へと接続される。
ある対象のイメージに対しては、その対象そのものへの直接的な作用を発動させないかぎり、何をやってもいいという主張は、はたして無条件に是認できるものなのでしょうか。
ロリコンKKKさん
どうも、ありがとうございます。
良識ある大人のご意見といいましょうか、ぎりぎりと追い詰められてきておりますが、ここはひとつ、頑張って抵抗したいと思います。
KKKさんは、いわゆる効果説の立場にたたず、現実の被害者がいるか否かで表現の自由を規制する論理(法理論)に立ってらっしゃいます。そこまでは私と同じですよね。
でもKKKさんは、現在では、記号表現と現実の写像関係を否定し得ない以上、「現実には被害者はいない以上、表現の自由は守られるべき」という主張も、一定の制限を受けざるを得ないのでは?と指摘されます。
この主張はもっともで、かつ説得力があるのですが、しかしやはり、どこか違和感が残るのです。
この週末に、まとめてレスしたいと思います。
とりいそぎ。
簡にして要を得たまとめをありがとうございます。ちなみに「ぎりぎりと追い詰めている」というつもりはないのですが・・気楽にこんなことを考えている奴もいる、ぐらいに軽く受け取ってもらえればと思います。
少し訂正すると、法理論上の効果説は、いわゆる「現実」の被害者がいるかどうかに規制の根拠を置こうとしています。私はこの効果説に全面的に賛成しているわけではありません。というのもこの効果説は、いわゆる現実と記号との二元論に立ち、しかもその二元論的区別そのものに規制の根拠をおいているからです。つまり記号操作が現実に及ばないかぎり、それはいわゆる「表現の自由」の領域として規制の対象にしないという考え方です。法理論的な表現の自由論は現実と表現(記号)が截然と区別できるというある種の哲学的な前提に立っているのです。
私はボードリヤールと同様に、こうした二元論は現状では素朴すぎると考えています。つまり現状においては現実もまた記号(表現)的な要素をその身に深く帯びていて、記号運動の一部を構成しているということです。生身の身体をその一部とする記号シュミレーションのなかに我々は生きている。とすれば、記号表現は現実であり、現実もまた記号表現だということになり、両者の区別は困難になる。
こうしたボードリヤール的な前提を認めれば、考え方としては、生身の身体という記号の次元と、それ以外の(写真もしくは漫画の)記号の次元を厳密に区別する記号操作が果たして可能か、というかたちを取ることになります。現実と記号の対立ではなく、ある記号領域と別の記号領域の区別です。しかしそう考えるとしても、両者の記号領域のあいだには強力な写像関係があるわけですから、記号運用の次元で両者が無関係だと主張することは不可能に近い。
不可能に近いながらも両者の区別をしなければLoは破滅するしかないわけですから、二つの領域を区別しようとする無限の記号発動を Loは余儀なくされる。それが、不可能さの負い目に駆られて生み出された、かの一連のPR画像ではないのか、と思うわけです。一言で言えば、表現の自由の前提が崩れている、だから、あたかもその前提を守るかのような記号の身振りが要請される、ということなのです。
ちなみに私はLoを児童ポルノ禁止法によって規制すべきだとも思わないし、表現の自由の名によってそれを正当化しようとも思わない。というのも、どちらの立場も現実と記号の二元論を前提としており、私はその前提に賛同できないからなのです。
「...........が最初に指摘されている点、LOの主張は、サブカル層がシャレで購入できるような戦略だ、というのは、まさにそのとおりでしょうね。私も、その戦略にはまった一人ですし。」
要するに、某有名写真家ふうに言えば「実用本」を山内泰さんは買って愛用をしていた?ということかな?わたしもセンズリ用に”ビニ本”なるものを買ってたから似たようなものです。
但し、これでは済まないところがありますが、なんだか、もう、やめておきます。
チンコもあんまり自在には暴れんようになったし、若い君の出番だ。でも、バリバリ筋の通ったチンコを持つドネルモであってほしい。