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別冊ドネルモvol.3 『化物語』 :「デレた」では片付けられない何か-12話の戦場ヶ原さんについて


化物語チラシ表ピンク.png

プレゼン・構成:山内泰

別冊ドネルモvol.3「化物語、あるいは私が持っているもの、全部」、前回は主に前半部のトークを音声にて配信いたしました。今回は、後半のプレゼンから。12話の戦場ヶ原さんの振る舞いのうちに、過剰な(?)深読みをしております。それでは、どーぞ。

 

はじめに

では後半、まずヤマウチから、戦場ヶ原さんの、とくにテレビ版最終回(12話)での振舞いについて、ちょっとお話させてもらいます。というか、どうしても今回、このことを話したかったんです(笑)。

前半のトークでもちょっと触れましたが、僕はアニメの『化物語』の前半観てるとき、もうとにかく、戦場ヶ原さんが嫌いでですね(笑)、「どうしてまだ出てくるの?」って思いながら、ぶつくさ言ってたんですよ。

ところが12話を観て、もう、雷に打たれたというか(笑)。「ああ、そういうことだったのか」!と。それで、180度態度を変えて、戦場ヶ原さん万歳になったわけです。しかも、後でも触れますが、これはアニメだったからこその話かもしれません。原作を後で読みましたが、12話のシーンに関しては、もうぜんぜん、アニメが素晴らしい。

そういうわけで、今日は、アニメの第12話でいったい何が起きていたのか、そこのところをお話したいと思います。題して、

《デレた》では片付けられない何か。

です。

ツンデレとは

さて戦場ヶ原さんは、やっぱり一般には〈ツンデレ〉だと思われてるでしょうし、12話は「戦場ヶ原さんがデレたよ」って話に、ごく素直に見たら、見えると思います。

通常、「ツンデレ」とは、恐らく、次のようなあり方を言うのでしょう。

●本当は優しくできるけど、しない。
●がんばれば好きだと言えるけど、言いたくない。

要するに、実は「いっぱいもっているのに出し渋ってる」っていう、そういうあり方です。チラリズムと言ってもいい。そこで問題になっているのは、ただひたすら、ツンとデレのギャップなわけです。例えば、『らき☆すた』のかがみんなんか、その典型ですよね。

でも、僕が思うに、12話の戦場ヶ原さんには、「デレたでは片付けられない何か」があるのです(笑)。

というのも、12話で胸を打つポイントは、言動におけるデレ(「キスをしましょう。」etc)にではなくて、戦場ヶ原さんの《プレゼントのふるまい》にこそあるからなんです。そしてそのことは、戦場ヶ原さんが、実は「ツンデレ」ではなかったという種明かしにもなってると思います。

ギフトとしてのプレゼント

ポイントとなるのは、戦場ヶ原さんがアララギ君にプレゼントした、ってことです。じゃあ、何をあげようとしたのか。「私が持ってるもの、全部」と彼女は言います。

かけがえのない人に〈私〉をプレゼントするとして、私として何を差し出せるのか。〈相手が気に入ってくれそうな私〉に自分をカスタマイズして、それを差し出すこともできるでしょう。でも、彼女はそれをしません。また逆に、偽りのない〈素の/本当の私>を受け入れろ、というのかといえば、そうでもない。(自分の身体については、戦場ヶ原さんがアララギ君に告げたとおりでしょう。)

むしろ12話の戦場ヶ原さんがやっているのは、〈私が確かに持っているものを全部あげよう〉ということなのだと思います。

その意味で、戦場ヶ原さんは誠実だといえるでしょう。私が〈私〉としてプレゼントできるものを、吟味しているわけです。だから、彼女はあまりしゃべらないのだし、「デートをします」といった言い方すら、どのような言い方が適切なのかわからないのでしょう。〈ツン〉になるのは、〈他者に対して、自分がどのように関りうるのか?〉をひたすら吟味しているからなわけで、〈ツン〉として受け取られている戦場ヶ原さんの見かけは、そうした誠実さの裏返しなのだと思います。

その意味で、戦場ヶ原さんは、彼女自身が認めるように(子供に対する態度etc)、深刻な自意識過剰ということになるでしょう(笑)。ただ一般的な自意識過剰が、〈他人に見られている自分〉のイメージをとにかく良いものにしようと取り繕うのに対して、戦場ヶ原さんの自意識過剰は、〈他人に対して自分が何を与えられるか〉ということにのみ関心があります。同じ自意識過剰でも、この違いは決定的です。

そして、そんな彼女が〈プレゼントできるもの〉として選び抜いたのが、可愛い後輩(神原)、無口なお父さん、そしてあの星空だったわけで、それらは「私の宝物」なのだ、と、彼女は言うわけです。

〈宝物が3つしかない〉ということは、端的に戦場ヶ原さんが、欠落していることを示しています。ごく普通の、多くの人々が獲得している「幸せ」を持っていないわけだから。そしてこのことが、ひたぎさんが「ツンデレ」ではない、つまりいっぱい持っているのに出し渋っているのではない、ということの種明かしになってもいます。私の持っている精一杯を出して、ようやく3つなわけですから。

そんな彼女が、彼女の持っている数少ない「宝物」を「アララギ君に全部あげた」というのが、12話での出来事なんです。そんな〈プレゼントのふるまい〉を目の当たりにすると、やはり心動かされてしまうわけです(笑)。

だって、そうでしょう?(笑)。ここでは、贈与するっていう振舞いがなされてるわけです。それは決して、自分の領域に相手を取り込んで安心したいがための振舞いではありません。失いたくないかけがえのなさゆえに、「私が持っているもの、全部」を、ひたすら贈与する。いわば〈ギフトとしてのプレゼント〉なんです。

それは見方によっては、押し付けがましい。でも、その押し付けがましさは、戦場ヶ原さんには問題にならなかったはずです。というのも、あのプレゼント以外に、アララギ君をつなぎとめておく方法はないと考えたのだろうし、あのプレゼント以外に、自分があげられるものはないと考えたのだろうから。彼女なりの必然性をもって、あのプレゼントはなされてるのでしょう。

もっとも、「必然性があった=他に手段がなかった」と考えたのだとすれば、それはほとんど錯覚なのです。そんな錯覚に基づく振舞いは、場合によっては最悪の結果を招くかもしれません。

それでも、その振舞いには、やはり感銘を受けてしまいます。というのも、そんな〈ギフトとしてのプレゼント〉は、〈誠実さ〉(もある意味錯覚なんですが)を通じて、かけがえのない人に関わろうとするスタンスに貫かれているからです。エゴイズムの行き着く先の利他性というか、利他性を突き詰めた先のエゴイズムというか、そんな逆説が、ここにはあるように思うのです。

「戦場ヶ原ヒタギ」から「ひたぎ」へ

さて、そうしたひたぎさんからのプレゼントを受けて、アララギ君の中でも、戦場ヶ原さんが書き換わっていく。そこのところ、アニメの表現が秀逸です。

12話では、星空を見つめながら、ひたぎさんが「あれがデネブ、アルタイル、ベガ・・」と説明をしてますよね。原作だと、そこからもうちょっといろいろなやりとりがあります。

でも、アニメだと、ひたぎさんの話す言葉が消えていく。そしてアニメは、そこからひたぎさんの名前と回想の画像を、それぞれ三枚出すわけです。あれほどテキストを十全に表現することに尽力していたアニメが、ここにきてテキストを放棄してるわけで、その意味で、ここにどれほどの強度が込められているわかります。

みなさま、今日帰られたら、是非12話を観て確認していただきたいのですが(笑)、この回想シーンは、次のような感じになっています。

【文字】戦場ヶ原ヒタギ(背景:赤)
【回想シーン】空から落ちてくるところ
【文字】ヒタギ(背景:うぐいす色)
【回想シーン】公園で「I love you」と告白したところ
【文字】ひたぎ(背景:白)
【回想シーン】神原さんとの決闘に登場したところ

「戦場」「ヒタギ」といった刺々しいイメージから、ひらがなの「ひたぎ」へ。〈真っ赤>なイメージから、何ももっていないことを示唆する<白>へ。ひたぎさんのイメージが、新たに書き換えられていくプロセスです。

それに伴い、アララギ君の(そして観ている人々の)ひたぎさんの記憶もまた、書き換えられていく。空から落ちてくるのは、彼女が何にも支えられていないことを示唆しているのだろうし、とりわけ神原さんとの決闘に登場したときの表情は、単純に怒っているのではなく、アララギ君を喪失してしまうことへの恐怖に怯える子供のような表情にも見えてくる。

このプロセスを俟って、ひたぎさんの言動はツンデレではなくて、精一杯のふるまいだったものとして、その〈意味〉が書き換えられていく。この回想シーンは、アララギ君の(そして観ている人の)「ひたぎさん」理解が書き換えられていく、そんな場面なんです。これは原作にはない、アニメに特有のものです。

こうしたプレゼントを経たからこそ、アララギ君は、ひたぎさんからの告白「やさしいところ、かわいいところ・・・」を、素直に受け止めることができるようになったのでしょう。12話で同じやりとりが2回出てきますよね。最初は、素直に聞くことのできないあららぎ君でしたが、〈プレゼント〉を受けた後では、素直に受け止められる。それも、ひたぎさんを理解したからこそのことでしょう。

西尾維新は信頼できる!?

西尾維新は、こんな具合に、キャラの属性について、どうしてそういう属性になるのか、丁寧にフォローしてるんですよね。その意味で、彼の作品は、単にキャラが戯れてるだけの作品とは一線を画します。僕は、一般的に評価されてる西尾維新の会話のやりとりの妙とか言葉遣いとか、正直苦手なのですが、キャラに対するスタンスには、感銘を覚えてしまいます。

今回お話したひたぎさんのツンデレ属性はまさにそうです。他にも、例えば神原さんがアララギ君に過剰に恭しい敬語を使うのも、「どうして私じゃだめなのだ」という一言に集約されてますよね。つまり、戦場ヶ原さんが自分ではなくてアララギ君を選んだっていう(神原さんにとっては)受け止めがたい現実に何とか適応するための、ほとんど防衛的な反応として、自分を殊更下げてアララギ君を敬うという振舞いが要請されてくるわけでしょう?

そういうところをきちんと書いてる点で、「西尾維新は信頼できる!」って思うんですよね(笑)。そしてそういう西尾維新の美点を、12話の新房さん&シャフトは最大限汲み取ろうとしていて、しかもそれに成功してる。そういう風に思います。はい。あ、おしまいです。









「ああ、そういうことだったのか」!と。それで、180度態度を変えて・・・

ちなみに、似たようなことは、アニメ版の『かんなぎ』最終話を観てて、つぐみさんに対しても起こりました。つぐみさんも、ずっと嫌いだったんですよね。あのアニメ最終話でも、〈幼馴染〉というキャラ属性がどういうことなのか、とても丁寧にフォローされていましたよね。そして「涙が出る」とはどういうことなのか、とても正しく演出されていた。

山本さんの演出(どうして漱石の「こころ」が参照されたのか、とか、なぜシベリウス7番だったのかとか)にも、言うべきことは多いので、機会があれば。



プレゼント

アニメ化物語12話における戦場ヶ原さんの〈プレゼント〉を貫く思想を、この上なく美しく歌い上げていた人たちがいます。去年くらいに奥田民生が歌ってましたが、断然オリジナルが素晴らしい。〈プレゼント〉ってこういうことなんですよ。

上田元さん追悼の意を込めて。



ギフト

ギフトとしてのプレゼントということで、音質など状態は悪いですが、こちらもご参照ください。



私の持っている精一杯

別冊ドネルモでのプレゼンの際に、「これが私の精一杯」という歌詞がひたぎクラブop『staple stable』にもある、とのご指摘を受けました。興味ある方は、確認されてみてはいかがでしょう?

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