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『ポニョ』と子供とハヤオの魔法(1/2)【ドネルモアーカイブ】


 

 

テキスト:山内泰

この夏、『崖の上のポニョ』(宮崎駿)と『スカイ・クロラ』(押井守)が同時に公開されていた。『ポニョ』は賛否両論(子供の評判がいまいちらしい)、『スカイ~』は評判が良いようだ。もっとも、老若男女・大多数が足を運ぶジブリ作品とアニメ好きが中心だろう押井作品では、評判に差が出て当然なのかもしれない。

ただ皮肉なのは、どちらかと言えばコアな人向けの『スカイ~』の押井が常識的な内容を物語ろうとするのに対し、万人向けとされる『ポニョ』のハヤオはいよいよおかしくなっている、という点だ。押井は、今更ながら「終わりなき日常を生きろ!」と言う。一方ハヤオはといえば、「人間なんてね、いなくなればいいんですよ」と笑いながら、のほほんと絵本を描いている。語るべきは『ポニョ』だろう。

魚の子「ポニョ」と人間の子「宗助」の交流をテーマに、子供向けに作ったという『ポニョ』。公式HPには、「どんな時代であれ、5歳の少年から見た 世界は、美しく生きるに値する」とある。

恐らく、ハヤオの考える「美しく生きるに値する世界」とは、生命が活き活きと躍動する世界なのだろう。『ポニョ』でも、冒頭から海中生物がうにょうにょと、それはもう見事なものだ。波もまた「水魚」という生き物として描かれる。あらゆるものを有機的に描くのはいつものハヤオ調だが、特に今回は全て手書きという気合の入れようだ。有機的で調和した世界を、ハヤオは子供達に見せたいのだろう。

しかし、その世界で躍動する生命に、私たちは含まれていないように感じられる。地上の様子は車椅子の老婆たちに象徴されている。宗助や母リサたちよりも、彼らを乗せて走るクルマのほうが、より活き活きと描かれている。それもそうだろう。現代日本の私たち人間はといえば、無機的で活き活きしておらず、もっと言えば全てを管理された操り人形のような有様なのだから。

この人間観は、『スカイ~』をはじめとする押井作品の基本だ。今回のハヤオも、そのような意識を押井と共有しているのかもしれない。

もっとも押井であれば、「現代の人間」の人形的な有様に共感し、作品の主人公に据えるだろう。そして、『スカイ~』がそうであるように、人形的な主人公に感情豊かな表情で涙を流させたりもするだろう。押井は「人間は人形みたいなもの」と醒めてるようで、その実「でもそのどこかに豊かな人間性が宿っている」と信じるナイーヴなおっさんである。だから『スカイ~』でも、ベタな脚本の人間ドラマを物語ることに何の躊躇もない。

その点ハヤオは「人間は人間だ」と信じて疑わないピュアな爺さんである。だが、そのピュアさは、豊かな人間性を見出しえない現実に苦悩し、その反動から作品世界を過剰なまでに豊かな有機性・人間性で埋め尽くそうとする。ここ10年くらいのハヤオにその傾向は顕著で、『千と千尋~』以降の定番にして評判の悪い「大粒の涙」などその典型例だろう。

 

そしてついに今回、有機的な世界を求めるピュアな想いは、作品世界から人間社会を抹消するところにまで追い詰められている。見出すことができないなら、いっそのこときれいに消して、新たに描き直そう、というわけだ。

つまり今回のハヤオは、有機的な表現を追い求める過程で、コミック版『ナウシカ』とは正反対のところに到達したのである。人間がいなくなるのだから、人間ドラマも成立しようがない。作品は、もはや物語に依拠せず、有機的なイメージがひたすら登場する絵本のようなあり方を望む。

したがって『ポニョ』は、その前半で、人間社会を作品世界から放逐することを目指す。その上で、映画後半、有機的世界を存分に描いてやろう、という 計画である。

すでにポニョの元々の名前からして示唆的だ。「ポニョ」とは宗助が名づけた名であり、元々の名は「ブリュンヒルデ」であった。ブリュンヒルデ は、ヴァーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』に登場する女神ヴァルキューレ(の長女)の名前だ。

ヴァルキューレの仕事は戦死した英雄の魂を神殿ヴァルハラに届けること。つまりヴァルキューレの赴くところ死者続出の戦場であり、彼女が英雄の手を携えて向かうのは死後の世界なのである。映画前半、「ヴァルキューレの騎行」めいた音楽をバックに、巨大化した妹たち(水魚)を従えて宗助を目指す長女ポニョ。彼女の向かうところもまた、死体がうずたかく積みあがることだろう。

果たしてポニョは、荒れ狂う大津波としてやってくる。その津波は、まず(宗助の父)コウイチの船に襲いかかり、次いで町を飲み込み、崖の上を目指し て疾駆する宗助の車を捉えんばかりの勢いだ。大災害なのである。

もっともポニョは、『ナウシカ』のオウムみたく憤怒に駆られて人間社会を圧倒するのではな い。ハヤオは言う。大津波はポニョからの求愛なのだ、人間(宗助)を好いた自然(ポニョ)が愛ゆえにやってくるのだ、と。

倒錯したこの主張を、ハヤオは、躍動する波の先端を嬉々として駆けてくるポニョのイメージに託した。波の上のポニョの表情は希望に満ち溢れ、その瞳は大好きな宗助を見つめている。人間を死へ追いやる圧倒的な自然の脅威が、これほど感動的に、あたかも祝福されたものであるかのごとく表現された例を他に知らない。歴代のハヤオ作品のなかでも、とくに傑出したシーンだろう。

かくして人間社会は、ポニョの愛の襲来を通じて、海面下へと一掃されるのである。

(つづく)

【update date:2008/9/1】

崖の上のポニョ

2008年、スタジオジブリ。監督は宮崎駿。



スカイ・クロラ

2008年、Production I.G。監督は押井守。原作は森博嗣。戦争請負会社の日本人部隊で、戦闘機に乗って戦う若者の物語。

レビューでは内容・演出面に苦言を呈しているが、『スカイ・クロラ』のドッグファイトのシーンは、恐るべき精度。



終わりなき日常を生きろ

社会学者宮台真司の本のタイトルおよび、その本で述べられている主張。筑摩書房、1995年。

筆者には、『スカイ・クロラ』は95年の主張の焼き直しに見えてしまったのであるが、もちろん、今でも「終わりなき日常を生きろ」という主張を考えることに、意味がないわけではないだろう。

 


ブリュンヒルデ/ヴァルキューレ

19世紀ドイツの作曲家ヴァーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』から。ブリュンヒルデはヴァルキューレの一人で、ヴォータンという神様の長女。

ちなみにヴァーグナーの楽劇でのブリュンヒルデは、ヴァルキューレとして活躍した後、父ヴォータンと喧嘩して眠らされ(第1夜『ヴァルキューレ』)、眠ってるところを、力はあるが頭の弱いジークフリートに見初められ、結婚(第2夜『ジークフリート』)、でも策略に嵌められてジークフリートに浮気されたり、別の男とくっつけられてと散々な目にあった挙句、父の神殿ヴァルハラに放火、自分も燃える(第3夜『神々の黄昏』)みたいな、大雑把に言うとそんな話。

『ニーベルングの指輪』はすべて上演するのに4夜(上記3つに先立つ序夜『ラインの黄金』がある)かかる大作で、その第1夜『ヴァルキューレ』第3幕前奏曲が、『ヴァルキューレの騎行』。有名な曲なので、聴いたことがある人も多いのでは?

ポニョが海からやってくるシーンの音楽は、このヴァルキューレの騎行のパロディになってたし、そういえば、ポニョ制作時のドキュメンタリーでも、ハヤオはヴァルキューレ聴きながら作業してましたよね。


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10/02/12 01:12 | コメント(0) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

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