« 『ポニョ』と子供とハヤオ... | 安室奈美恵、痕を押された... »

『ポニョ』と子供とハヤオの魔法(2/2)


(1/2からのつづき)

さて掃除は終わった。もうドラマな物語をやる必要もない。まだ時間はたっぷりある。『ハウル~』のときみたく急ぎ足になることなく、今回は思う存分、二人のためだけに有機的な世界を描くことができそうだ。と、計画通りに、映画後半でのハヤオはやりたい放題である。

 

静かな海を、ポニョと宗助は船で行く。悠々と泳ぐデボン紀の生物達。小船を揺らす優雅な夫婦と赤ちゃん。舟祭りのように元気な人々。水中に沈みながらも洗濯物が干されている家。水の中で楽しげに走る老婆達。イメージが絵本のように次から次へと登場する。「え、みんな死んでるんじゃ・・・?」といった疑問も、葛藤や希望といった人間ドラマも、ハヤオの非凡な想像力の前では、卑小な瑣事にすぎない。

だからハヤオは、「人々の希望だから消さないように」と母リサが忠告した家の電灯も、ポニョと宗助を気遣うグラン・マンマーレに「今はおやすみ、子供達」とあっさり消させてしまう。人間の希望など取るに足らない。ポニョと宗助のために設えられたこの有機的な世界こそ、語るべき「美しく生きるに値する世界」なのである。その世界は曇りなく透明で、みんな元気で健やかだ。最後はもちろん、全て丸く収まるハッピーエンドで締めくくられる。エンディングを往年のコメディ映画のパロディにしてしまう余裕の遊びからも、作品からは満足げで、やり切ったような印象を受ける。

ただ、ハッピーエンドに至るには、暗いトンネルの向こう側へ抜けなければならなかったのだが・・・、このトンネルがどうも気にかかる。

『千と千尋』の千尋は、暗いトンネルの向こうで神隠しに会うが、最後にはこちらへ戻ってきた。『ハウル』のソフィーは、暗い洞窟の穴の向こうで幼少期のハウルと出会い、そして再びこちらへ戻ってきた。だが、『ポニョ』の宗助は、トンネルの向こうに行ったまま、戻ってこない。『ポニョ』のトンネルは、主人公の往来によって塞がれることがなく、作品世界にぽっかり穴を空けたままなのだ。

そのため、『ポニョ』のハッピーエンドには、その背後からトンネルの暗闇がひっそりと影を投げかけている。その影に捉われ、トンネルの闇を振り返ってしまうならば、ポニョは魚に戻り、水没した世界はグロテスクな廃墟として立ち現れることだろう。というのもトンネルの闇の中では、ポニョの魔法は解けてしまうのだから。ためらうことなく突き進んでいたポニョがこのトンネルを嫌がったのも、その闇の中では魔法が無効化されてしまうことを予感していたからかもしれない。

だから「世界のほころび」を閉じるために、「美しく生きるに値する世界」を守るために、宗助は、トンネルの暗闇を背中で意識しながらも、絶対に振り返ってはいけない。二人のための世界が壊れないよう、前を見ていなければならない。ポニョは魚で半魚人、とわかった上で、それを人間と言張る魔法を受け入れなければいけない。つまり宗助が引き受けるべき課題とは、魔法を魔法として受け入れることなのである。それは決して、無垢なままに魔法にかけられてしまうことではない。

かくして宗助は、魔法をかけられる役ではなくて、世界を守るための魔法を司る役を引き受ける。それは、闇を意識しながらとりあえずそれに蓋をする、嘘だとわかってもそのままにしておく、そういう罪を抱え込んだあり方を引き受けることだ。

それでもなお、世界を「美しく意味あるもの」に見せる魔法に意義があるのだとしたら、その役を引き受ける者も自ずと現れるだろう。ハヤオがラディカルなのは、その役を大人ではなく5歳の子供に期待する点である。ハヤオにとって、子供はもう、魔法をかけてもらえるような無垢な存在ではない。いつか不穏な影に耐え切れなくなり、自分の通ってきたトンネルの闇を振り返ってしまうそのときまで、「美しく生きるに値する世界」を守る魔法を引き受けるべき存在なのだ。『ポニョ』が子供向けとは、そんなハードな意味においてであろう。

【update date:2008/9/4】 

 

 

----- clear -----

 

 


10/02/20 14:31 | コメント(3) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

« 『ポニョ』と子供とハヤオ... | 安室奈美恵、痕を押された... »

関連記事

| 『ポニョ』と子供とハヤオの魔法(1/2)【ドネルモアーカイブ】 | 【新春企画】「わたしの2011年たち」 〜渡邉優紀さんのばあい〜 | 【新春企画】「わたしの2011年たち」 〜園田寿子さんのばあい〜 | [11.11.11]【参加者募集中】別冊ドネルモvol.17 運命の至る場所へ―『輪るピングドラム』 | 【インタビュー】あの日見た秩父の地を僕は忘れることができない【商工会議所編】(3/3) | 【インタビュー】あの日見た秩父の地を僕は忘れることができない【商工会議所編】(2/3) |


トラックバック(0)

トラックバックURL: http://donnerlemot.com/mt/mt-tb.cgi/442

コメント(3)

レスが遅れてすいません。私事ですが、対馬に行っておりました。対馬では、蝶々にバッタ、赤とんぼ、タンポポや紫陽花、コスモス、彼岸花等々、互いの季節を無視して、うようよと生い茂っておりました。その濃密な自然度に接するに、ハヤオの描いている有機的世界も、強ち誇張でもないのかもと思ったほどです。

さて、春雄さんの泣きどころは、男性は結局女性の手のひらの上だ、という点でしょうか。ハヤオによれば、ポニョは女性性の化身以外の何ものでもなく、やがてはグランマンマーレのように多数の夫を持ち、全生命の源となる存在なのだそうです。リサの声優を務めた山口智子さんも、宗助に会うためにやってくるポニョの姿に「女」を見た、と言ってましたね。

春雄さんの視点とどことなく重なる点があるかもしれませんが、『ポニョ』では、グランマンマーレとリサの会話が密談をしていましたね。でも、その内容は全く明らかになっていない。何かとても大事なことが話されていたと思うのですが、私たちにはわからない。宗助や私たちは、そこで話されていたことをただ受け入れるしかないかのようです。

『ハウル』でも、子供の頃のハウルとカルシファーは何かを話していました。が、ソフィーや私たちは、「秘密が交わされている」情景だけが見えていて、どんな秘密が交わされているのか、わからない。最近のハヤオは、そうやって神秘を神秘のままに扱っていて、そこが賛否両論となる点なのかもしれません。私は断固支持ですが。

>春雄様

申し訳ありません。管理上のミスで、春雄様のコメントが表示されなくなっております。もしコメントの控えをお持ちでしたら、お手数ですが再度、コメント欄に記載していただけますでしょうか?よろしくお願いいたします。

管理人様、私です、春雄です。私のコメントを管理していただいているとのこと、恐縮しております。ありがとうございます。
私がハヤオ映画において感じるのは、男性と女性の対比がそのまま文明と自然との対比につながっている、そして、男性は女性に、文明は自然に飲み込まれるという点でありした。フジモト様のおっしゃるように、ポニョはそのさいたる例でしょう。私も対馬へ行きとうございます。

コメントする