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別冊ドネルモvol.4『コードギアス』:「成長の物語としてのギアス」 |
プレゼン:古賀琢磨
今回は、別冊ドネルモvol.4『今、私たちが生きる<コードギアス>』で、古賀琢磨さんが行ったプレゼンをお届けします。どうぞご覧下さい!
『コードギアス』は現代における成長物語として見てよいだろうな、というのが僕の考えです。ただ、それは、何か大きな成長モデルみたいなものがあって、それに沿って大人になっていくような質のものではありません。個々人の変化という程度でしかありません。
一つの見方としてルルーシュの場合というのを考えてみましょう。第一期と第二期の大きな違いはルルーシュの<情けなさ>にあると思います。第一期のルルーシュは「ナナリーが安心して暮らせる世界」みたいなものを守ろうとしていた点で一貫していました。でも、第二期ではあっさり戦略目標自体が変わってしまったりします。
その一つが、戦う理由は「もうナナリーだけ」ではない、という言葉に現れています。彼は、他人を駒として使いながらその経験の中で学校の友達だとか黒の騎士団だとかを抱え込むようになります。要するにある意味で、視野が広がって守る者が増えてしまうわけです。一期のルルーシュは一人の世界で生きていて、二期のルルは他人と一緒に生きる世界で生きようとしているみたいな感じです。
そもそも、第一期でルルーシュは合理的に計算しながら「正義の味方」として振る舞うし、ブリタニアによる支配の物語に対して日本による抵抗の物語を動員します。要するにカッコいいわけですね、中二病的に。シャルルの「弱肉強食」に対して「撃って良いのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」といった感じで啖呵をきっちゃう感じです。
一方で、彼が動員する物語は、例えば黒の騎士団に対して、この正義の戦争にのるかそるか、という選択肢を提供しますが、自分自身はそこにうまくノれません。なぜなら、彼自身は違うもの、「ナナリーを守ってる俺かっこいいー」的な物語を見てるからです。
他方で、彼が他人を見つめる視線は非常に論理的です。でもそれは、自分自身を計算の埒外に置いたり、自然科学的に人間集団を捉える方法であるとも言えるでしょう。でも、このとき、社会って自分も含まれているわけですから、計算違いが起こり得ます。そういう可能性に第二期では気づいてしまうわけです。「ナナリーが望む世界、ナナリーが望む明日、それには俺が、ゼロが邪魔だ」みたいに。第一期では、マオが指摘するように自分を批評家として見つめる自分がいて、それを更に冷静に見つめる自分がいて…といったように、自分を何重にも見つめる存在が必要になっていますが、まあ、うまくいきません。
そこで、第二期から始まる彼の行き当たりばったりっぷり、ヘタレっぷりこそが、彼の成長なのではないか、と考えます。第二期では、ルルーシュがダメ人間になればなるほど誰かが手を差し伸べてくれたりします。「リフレイン」を使おうとして、カレンに止められたり、生徒会メンバーの前で涙を流したりすることで、再度黒の騎士団としてやっていく動機付けが生まれます。あるいは、カッコ悪いルルーシュが新たな解決を導きます。スザクに土下座して、足で踏みつけられたことも、後に「ゼロ・レクイエム」に繋がる布石となります。ルルーシュはダメになるほどに他人を受け入れるようになります。
ルルーシュはスザクとゼロ・レクイエムを計画しているためにそれまでとは違う行動原理=シュナイゼルを殺す(チェス的)のではなく、今後も利用する(将棋的)、という行動がとれるようになっているのです。独りよがりで俺カッケー的な一人の世界ではなく、情けなさとともに現れる他人との共生を望む二期のルルの世界の方がとても好ましく思われます。
勿論、最終的に死ななきゃいけない、一応、僕はルルーシュが死んだと考えていますが、死ぬことでしか責任をとれない、というところが彼の限界だったのかもしれないし、あるいは、彼がやらかしてきたことは死ななきゃ責任が取れないくらいまで行きついてしまったのかもしれません。どちらにせよ失敗した成長物語ではありましたが、「それでも明日が欲しい」と望んだルルーシュの物語は成長を目指した物語だったと言いたいのです。
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