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安室奈美恵、痕を押された身体の自由【ドネルモアーカイブ】


text:古賀徹

CAN’T SLEEP,CAN’T EAT,I’M SICK/人魚(DVD付)
安室奈美恵に対しては、多くのアート系のダンス関係者から「お金儲けのための商業ダンス」、「文化資本の操り人形」、「音楽に支配されきった身体」、「大衆向けのキッチュ」、「あれはそもそもダンスではない」など、さまざまな非難が寄せられてきた。一方に、客の欲望や興行に拘束された「手段としての身体」があり、他方に観客の欲望や道具的なあり方から解放された「自由な身体」がある。そして後者の身体だけが「本物のダンス」を実現できるのだ、という構図は果たしてなお通用するのだろうか、そんな思いを抱かせた安室奈美恵のアリーナ・ステージであった。

昨年のツアーで全曲中の白眉となった「Violet Sauce」を昨年とは全く違った振り付けで踊ることからステージははじまる。ホテルのベル・ボーイの正装で登場し、最後に観客に歓迎の意を示す演出である。それよりはじまる前半から中盤にかけてのダンスは、昨年よりも遥かに進化した身体性の水準へと安室が到達したことを示すに十分なものだった。あるときはガラス細工の精密機械のように踊り、別の曲では見る者をとろけさせるような有機的でエロティックな動きをする。まるでファイルの中からいろんな書類を取り出すかのように、曲ごとにその身体システムをチョイスしてくる。これがいわゆる「手段としての身体」なのかと、慄然とする。

安室には「操り人形」としての自分をあえて主体的に引き受けているように見えるときがある。小室哲哉、エイベックスという、アート関係者には悪の代名詞のように言われる機構にすべてを決定されながら、紅白歌合戦のトリをつとめ、沖縄サミットで各国首脳の前で歌を披露するなど、歌手としては空前絶後の栄誉を極めてきた安室。彼女が出産から復帰し、その直後に不幸な事件を経験すると、その左肩と右手首にタトゥーが彫られた。

かつて奴隷には、その身体が支配された物件であることを示すために、所有者を明示する焼印が押された。その焼印は、その身体が自由でないことを示す傷痕であった。安室の右手首にはバーコードが彫り込まれている。たとえ本人にそのつもりが全くなかったとしても、それはコンビニの商品に印刷された商品管理番号のように私には見えてしまう。彼女は自ら「安室奈美恵」という、文化産業の奴隷の焼印(ブランド)を自らに押して、悲壮とも思えるしかたでダンスと心中しようとしているかのようにすら、見えるときがある。

むろん近年の安室は曲の選択から自身のプロデュースにまで積極的に関与するようになっている。だがそれは本質的な問題ではない。というのもダンサーの自由とは、曲と振り付けにすべてを決められているとしても、それでもなお、ダンスすることによって逆にそれらを支配し直すところに示されるのだからである。ダンサーは振り付けに従って身体を動かすことから始めて、振り付けに指定された動きが結果的に実現されるように自分の身体を自発的に組織する。その自律した組織化の能力こそダンサーの自由の根源なのである。そうした自由な身体に触れるとき、観客はそれをダンサブルなものと感じるのだ。

そういう意味で、安室はそのダンスにおいてすでに小室哲哉の「人形」の時代から自由であった。そして近年の彼女は、無駄な動きを徹底的に排除し、まるで動く彫刻のように踊る。たんに腕を振り上げるときも、その超高速な動きの一ミリ一ミリが、全身の状況の中でそれぞれ別個の意味を持ち、その意味を考慮しながら瞬間的に選択され、計算され、配列されているかのような動きをする。そして今年の白眉の一つであった「exist for you」では、腕や足、胴体といった身体の各器官が、すべて切り離されたそれぞれ別の生き物のように動き、なおかつその相互の関係性が計算づくでまとめあげられ、全体としての有機的な優美さを実現するといった技術の域に達しつつある。

金と欲望、曲と振り付け、そうしたものに支配され切った身体が、その苛烈な支配のただ中から作り上げてくるもの、その両者の差異のうちに存在するのがダンスの本質でなくてなんであろう。

安室を否定するのは自由である。しかしその理由が「商業ダンス」とか、「支配されている」とか、「そもそもダンスではない」というものであるとき、そうした言葉を支えるアートや自由についての考え方をもう一度問うてみたい気がするのである。

【update date:2006-10-27】

 

 

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10/03/05 23:24 | コメント(8) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

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コメント(8)

私は「安室」と聞くと、どうしても歌手とか音楽とかのイメージが先行してしまうのですが、言われてみれば、彼女はダンスの方もすごいかもしれませんね。次に安室を見ることがあれば、私もnamie loveさんのような視点でちょっと見てみようかなと思います。

その、参考までにお聞きしたいのですが、namie loveさんは、安室の歌とダンスの関係についてどうお考えですか?・・・やっぱり彼女に歌は必要だと思われますか??

 そうですねえ・・個人的には私は彼女の歌も好きです。とりわけCan you cerebrate ?のようなバラード曲よりも、ダンサブルで機械的なささやき系の方がよりマッチしていると思います。彼女のステージを見て思うのは、外面的なダンスと、内側からの表出としての歌とが対になって独自の出力機械になっているということです。歌とダンスは別物ではなく、歌は総体としての「ダンス」の一部として機能しているかのようです。

 いかにすぐれたアート系のダンサーといえども歌って踊るという芸をする人はそうはいないと思うのです。アート目線から彼女を見る場合でも、踊りだけよりは「歌って踊れる」という方向で道をきわめて欲しいかな、と思います。

 彼女のダンスの独自性は、一応R&Bを基盤としつつ、そういう歌を歌いながらも、しかもなおバレエのような優雅さの要素が同居しているところにあります。よく彼女は日本のジャネット・ジャクソンと言われたりもするのですが、この点で全く違うように思われます。ジャネットは筋肉質で重量感にあふれた踊りをしますが、彼女の場合、まず身体が極限まで絞り込まれたバレリーナのようであり、優美さや、身体の軽さを基調とした「ふわっ」とした浮遊感のようなものを感じさせます。今回のライブでも、バレエのような動きを取り入れたダンスをし、それがメカニカルな歌声と相まって独特の魅力を作り出していました。

 とにかく、あの針金のように細い身体で、10センチほどのピンヒールをはき、圧倒的な安定感で25曲(二時間)を全曲ノン・ストップで熱唱し、踊り倒してくる体力と気力がどこから生じるのか不思議です。見ていると、何もそこまでやらなくても、何がここまで彼女を駆り立てるのか・・と悲壮な気分になるほどです。

 私が彼女に望むのは、もうそこまでして自分を追い込まなくていいから、短い時間だけでいいから、さらに質を高めて、この世に存在しない芸を見せてほしいということに尽きます。ステージも、二時間のうち一時間ぐらいは映像やファッション、新しい音楽など、彼女が直接パフォームしなくていいから彼女独自の「世界」を見せてくれて、残りの一時間か三十分だけ、すごいダンスを見せてくれるぐらいでいいのかな、と。ちょっと寂しいかもしれませんが、彼女の長期の活躍を願って、そう思います。

私は偶然にも某バラエティ番組で彼女のライブパフォーマンスを拝見し、その音楽性やダンスの水準に感銘を受けるようになった者です。つい最近のドネルモでのライブ映像に関しても、不満の声は挙がっていましたが、自分としては非常に楽しめました。私が彼女を評価する理由は<ダンサブルで機械的なささやき系>のある意味マニアックな音楽をその形式を高めることによって大衆化している所です。日本のHip-HopやR&Bは音楽的に本場のスタイルを真似たマニアックなものになるか、歌謡曲や日本的な音楽を使ってわかりやすいものになるかのどちらかであったのが「安室」の場合はそのどちらにも属さずに圧倒的なクオリティとわかりやすさによって凌駕していると私は思います。

今後もnamie loveさんのドネルモでの記事を楽しみにしています。

そうですね。音楽の質も最近ではとみに上がってきて、楽しみな限りです。

実は今回のライブは、彼女は万全ではなかったような気がしました。とくに風邪を引いていたのか声がつぶれていて、最善のパフォーマンスを信条とする彼女のプロ意識にとっても、なかなかつらかったのではなかったかと思います。私としては彼女のバラード曲も好きなのですが、とくにハイトーン系のそれはきつそうでした。今回のライブもDVDになると思うので、もしよければまた上映会をしましょう。年齢的な円熟とともに、ダンスも歌も深みを増してくる彼女の今後が楽しみです。

ミュージシャンでダンサーな人物に対する「音楽に支配されきった身体」なる評は、はたして非難なのでしょうか。シニカルな言い回しによる絶賛のような気が・・・・。
donner le mot さんがその評を読まれた媒体・文脈をお教えいただけたらさいわいです。

「あれはそもそもダンスではない」というのも、的はずれな批判だと思いますし、「お金儲けのための商業ダンス」ということを発言する方は、ポピュラー・カルチャー界というものの外側で、勝手な不平不満をぶつけているんだなあ、という気がしました。

まあ、的はずれな言説を引用して、それに反論すれば、その論評はぜったい成功するから、書き手にとってはラクですけれどね。

コメントありがとうございます。上記に挙げた批判は、私の周囲の、主にアート系のダンスに関わる人たちから、私が安室奈美恵についてプレゼンをしたときに私が直接に受けた批判です。それ以外の人の反応を見ても、私の感覚ですが、アート系のダンスに関わる人たちに安室奈美恵はとても受け入れがたいもののように感じます。

私はここに、アートそのものが抱え込んでいるいろいろな問題点を感じるのです。otaさんがおっしゃる「的はずれな批判」を引用したのは、それがアートそのものに内在するある種の体質を代表しているかのように私が感じたからです。

ダンス界にかぎらず演劇や絵画など、アートに関わる人の多くから、「あれはアートではない」「あれはアーティストではない」「あいつは金儲け主義だ」という物言いを聞いたことがあります。そうした内ゲバ体質はいったいどこからやってくるのかと、部外者から見れば不思議な気がします。

ご返事ありがとうございます。

>アート系のダンスに関わる人たちに安室奈美恵はとても受け入れがたいもののように感じます。

そうですかぁ?

「アート」「アート系」とはいったい何なのでしょう。つまり、namie loveさんが指している「アート系のダンスの人たち」は、「アート」じゃなくて「アート系」なだけだったりして・・・・。

私の友達が、ちょっと見た目のいい青二才をさして、
しばしばいうんですよ。
「いや、あれはイイ男じゃなくて、イイ男系だ」

要するに、彼女の言語感覚だと、「~系」っていうのは、まがい=キッチュ なんですけれどね。

でぇ、

安室を「アートじゃない」とか言って、すっきりした気になってる「アート系ダンスの人々」って、要するに彼らのほうこそ、キッチュなのでは?

otaは思います。
namie loveさんが不思議がっていらっしゃる「内ゲバ体質」って、もしかしたら、そういう、まがい物の人々の無責任な発言の反復の中で生まれているだけかもしれないな、
って。

otaさん、お返事遅くなってすみません。

「アート系」というのは、直接にはコンテンポラリー・ダンスを指しています。コンテンポラリー・ダンス界のある責任あるNPOの責任者による公的な場での発言によると、コンテンポラリー・ダンスとは、現在存命中の人によって振り付けられたダンスのことだそうです。

問題は、こういう意識がどの程度共有されているのかということです。生きている人によって振り付けられたものならば、安室奈美恵はむろんのこと、フィギュア・スケートも、道ばたで踊っている人たちも、ディスコのパラパラも、モーニング娘も、宴会芸のダンスですら、すべてコンテンポラリー・ダンスであるはずです。しかしこうした観点は「アート」としてのコンテンポラリー・ダンスを自称する関係者にはあまり受け入れられそうにありません。

というのも近代の「アート」という概念は、そもそも「本物」と「まがい物(キッチュ)」を区別するその都度の行為によって初めて成立しているからです。「アート」を名乗る以上、必ず何かを「キッチュ」として否定し、排除しなければならない。そうしないと自分たちのダンスがモーニング娘と同列のものとして位置づけられてしまうのです。

「アート」を名乗る「アーティスト」(これは「ダンサー」でも「役者」でも何でもいいのですが)の宿命として、自分が「本物」であることを示すために、「偽物・まがいもの」をつねに作り出す必要がある。こうした概念の運動にどれほど自覚的であるかによって、その人の「アーティスト性」が判別できそうです。

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