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長門有希の変身―『涼宮ハルヒの消失』を覆う儚き願い |

text:笹野正和
長門有希は普通の人間では「ない」。いや、「なかった」と言った方が正しいだろうか。その少女は、今までの世界を自分も含めて否定し、書き換え、新しく生まれ変わった世界で全くの別人となって生きることを願った。ただ一人の人間を除いては。
映画『涼宮ハルヒの消失』(製作:京都アニメーション、総監督:石原立也)は、『涼宮ハルヒ』シリーズの主要キャラクター・長門有希(CV:茅原実里)が自身の存在をかけて願った世界の物語である。その願いの顛末については、ぜひ実際に映画館で見届けていただきたい。ここでは長門有希なるキャラクターが、作品の中でいかなる位置を占め、いかなる状況で本作品に登場するのかを紹介し、作品鑑賞の一助となれば、と思う。本稿では、特にアニメ版を参照して話を進める。
1・プロローグ
まず、この映画作品に至る壮大な伏線について触れておく必要があるだろう。2010年現在で9冊を数える小説版『涼宮ハルヒ』シリーズ(2003年連載開始)は、すでに累計600万部以上を売り上げ、新たな「国民文学」ともいうべき広がりを見せている。そして2006年に京都アニメーションがアニメ化するや、その奇抜な演出と完成度の高さで、一大旋風を巻き起こし、今回の映画につながる現代日本アニメを代表する作品にまでなった。
その物語の発端は、普通を自認する主人公こと「キョン」が、高校に入学するなり、パッと見は美少女だが、言動や行動がぶっ飛んでいる「涼宮ハルヒ」と関わってしまうところから始まる。そしてハルヒとの出会いによって、キョンの日常世界は非日常的出来事が巻き起こる世界に一変する。従って、これは日常的学園モノでデコレートされた非日常的SFモノとも言えるだろう。
入学初めのHRで「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。」とのたまった彼女は、普通に見れば、いささか空想的で、多少メンタルヘルス的に問題がありそうな、しかし何の力もない少女である。だが実は、この少女は、世界の存在自体を支える創造主的な力を持っていることが判明する。つまりハルヒは、自分の感情や気持ち次第で、世界全体を壊したり、全く違う世界に書き換えたりできるのだ。しかし本人はこの力に気づいておらず、無意識に力を発動しては、例えばリアルな世界と表裏一体の別次元で巨人を暴れさせたり、いつの間にかリアルな世界で魔法や超能力が使えるようにしてしまう。
そして、この彼女の力に引きつけられて、本当に宇宙人や未来人、超能力者が正体を隠して集まってくる。そうとは知らないハルヒは、彼らとキョンを加えた5人で「SOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)」なる怪組織を立ち上げ、日々怪事件・人物を求めて東奔西走することになる。従って、この作品は自分の力を知らずに暴走させがちな少女・ハルヒと、彼女に巻き込まれて、理不尽で非日常な体験・事件に遭遇し、対処する自称普通の男子高校生・キョン一同が織り成すSF物語といえる。このように「君と僕」の周りの小さな日常の人間関係が、即、世界の存亡に関わる重大な影響を持つ物語構造の本作は、ここ数年サブカルチャー論壇を賑わせている「セカイ系」の代表的作品とも言われている(『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』(*1)p.130以下参照)。
2.長門有希という「少女」
その中で表題の長門有希は、SOS団の団員にして、自称宇宙人の少女である。正確には「対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」という長ったらしい名前の存在であり、普通の人間ではない。人間外の知的存在が、人間にコンタクトするために創造した、人間の姿で言葉を話す「何か」である。登場当初は文芸部室で黙々と本を読む寡黙な少女にしか見えないが、ある事件を契機に、宇宙人としての超絶的能力を披露するようになる。その力は、高度に科学的な技術・能力を駆使しており、世界や物体をデジタル的に解析して干渉・改変するものだ。従ってそれは、コンピュータ的な世界像と強い親和性があるが、キョンから見れば魔法にしか見えない。そのため長門は、いつの間にかキョンの頼みの綱的存在となってい(*2)。
しかしこの「少女」は、普段はまったく感情を表さず、表情もほとんど変化せず、唯々諾々とハルヒの無茶な行動に従っている。ただ、ある事件をきっかけに、キョンの意見には割と素直に従い、時間を追うごとに少しずつ感情らしきものが芽生えているように描かれている。その変化の微細な様子は第1期(2006年)でも描かれるが、特に2009年に放送された第2期の「エンドレスエイト」シリーズにおいて、執拗なまでに表現されている。
『エンドレスエイト』における長門有希
(*1)『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』(前島賢著、ソフトバンク新書、2010年):2000年代に、東浩紀らによって取り上げられ、アニメ・ゲーム・ライトノベルを中心としたサブカルチャー界で、一つの流行語となった「セカイ系」という運動の変遷を論じた好著。
論の概略は、「セカイ系」という言葉が当初、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)で一世を風靡した、激しい一人語り(モノローグ)や孤独な内面の執拗な描写という意味で使われたことの指摘から始まる。そしてしだいにこの言葉が、『最終兵器彼女』に見られる「君と僕」の二者関係が、社会という中間層を抜きにして、直接世界の存亡に関わるものとして用いられるようになった歴史を論述している。
それと同時に、この本では、なぜ「セカイ系」がかくも長期にわたって取り沙汰されたのかを、作品だけでなく、それを取り巻くサブカル論壇の議論も追いつつ、解明している。特にエヴァ以降のサブカルの言説を切り開いた東浩紀や宇野常寛らの議論を手際よく解説している本書は、サブカルを巡る言説を理解する上でも、格好の書だろう。
(*2):これを往年の名野球投手にかけて、「神様、仏様、長門様」ともいえるだろう
3.予兆
作品世界での夏休み(8月)を描いたこのシリーズは、現実の日付でも夏の期間に放送された。延々と同じ期間・イベント・シーンのループを繰り返し、文字通り「エンドレス(終わらない)」な物語・演出を8週続けたことで、視聴者側からネットを中心に厳しい批判も行われ、大変な物議をかもした。
その中で、まるで視聴者の声を代弁するかのように、ループしていることを唯一知っている長門有希の表情が、回を追うごとに憂鬱なものへと変わっていったのが印象的である。設定では1万5千回以上、同じ期間・イベントを繰り返していることになっており、8回でこれほどの騒ぎになったことを考えれば、長門有希の心中推して知るべし、である(あくまで長門は、人間のような感情を持ち合わさないように描かれているが)。この現象はハルヒが起こしたことになっている。それまでにも長門は、ハルヒが起こした様々な超常現象を人知れず解決しているとされ、普通の人間なら発病するくらいのストレスを受けている、と想像される。
4.変貌
そうした事件を何とかやり過ごしてきた12月のクリスマス前が、『消失』の舞台である。ハルヒによって引き起こされる数々の事件に、受け身的に巻き込まれているキョンは、平穏な生活に憧れつつも、SOS団の根城である文芸部室に毎日通っている。その大変な事件を体験し、「悪癖だ」と思いつつ、ハルヒ達に付き合い続けるキョンの一人称で物語は進んでいく(基本的にこの作品は、キョンしか内面を独白しない、ある意味で私小説的な構造になっている)。
いつものように文芸部室で、ハルヒがハイテンションでゴーイング・マイウェイなクリスマスパーティ計画を宣言し、SOS団の面々は準備に駆り出される。その時はまだ、慌ただしいながらも、ある意味で日常となった世界が、翌日に一変することを、キョンは知らない。
翌日、登校すると、ハルヒは忽然と姿を消し、その他の団員もいなくなるか、ハルヒやSOS団の存在を全く覚えていない。驚愕するキョンが最後の頼みとして訪れた文芸部室には、いつも通り長門が本を読んでいるが、その長門はもはや、無口・無表情で超能力が使える存在ではなくなっていた。事情を問い詰めるキョンに、長門はただ体を震わせ、怯えるだけのかよわい少女に変貌していた。
こうして昨日から一変してしまった世界で、元の世界・元いた人々を取り戻すため、必死に手がかりを探すキョンにメッセージを残したのは、やはり元の世界の長門である。最初に自分の正体を明かした時と同様に、本の中にメッセージを書いたしおりを挟む、という妙に凝った方法で、キョンに期限内に「鍵」を集めろ、と指示していた・・・。

『消失』における長門有希
(以下では、作品の重要な謎を明かしている。従って、実際に作品をご覧になってから、読まれることをおすすめする。ご覧になった方には、一つの見解として読んでいただければ、幸いである。それでは、Ready?)
5.結末―儚き希望
訳が分からず、とにかく消えたハルヒ達を探そうとするキョン。だが変貌した長門は、彼に文学部の入部届け用紙を渡す。それは、ハルヒの消えたこの世界に留まってほしい、というメッセージでもあった。
ひょんなきっかけからハルヒを探し出したキョンだが、ハルヒもまた世界を創造する能力を失った普通の勝気な少女になっていた。元のハルヒ達が引き起こすトンデモ超常世界に戻るか、普通の少女になった長門達の今の世界に留まるか、選択を迫られるキョン。彼は、碇シンジ(*3)ばりの懊悩を延々と続けた末、ついに自分が「元の非日常世界が楽しかった」ことを認める。ここは、本作品の監督も言うように、ハルヒシリーズ全体の中でも、キョンが自覚的にハルヒ達に関わっていくことを決断する、重要なシーンの一つである。
(*3)碇シンジ:テレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公。14歳。ロボットSFアニメの主人公だが、父親の命令でパイロットにならざるを得なかった自分の存在に懊悩し、時に戦うことを拒絶し、すべてから引きこもる姿が、同世代の青少年の絶大な共感を呼んだ。テレビシリーズ最終2話の碇シンジの内面世界を延々と描いたと思われる演出は、賛否両論の嵐を巻き起こし、その後のサブカルチャー全般に大きな影響を与えた。
そして元の世界に戻ることを選んだキョンだが、彼にはまだ、改変された世界を元に戻すという仕事が待っていた。そのためにキョンは、世界を再改変した存在と対峙しようとする。しかし、そこに現れたのは、何と元の世界に帰る指示をした長門本人だった。
長門は本来、人間的感情を持たないはずの存在である。従って、そこでは怒りや嫉妬、まして好意などというものからは無縁なはずである。しかし、作中のキョンの分析によれば、様々な事件に遭遇し、キョンを始めとした人間に関わることで、「感情」というものが長門の中に生まれたとされる。それが積もり積もって、世界を改変するという本来ありえないような行為を長門にさせることになったのだ、と。
しかし、すべての事件が終わり、めでたく元の世界に戻った後で話す長門有希には、あくまで感情のうねりは見られない。すると、あの変貌した世界で見た長門の豊かな表情・感情は儚く消えるべき運命のものだったのだろうか。その生まれ変わった世界で微笑んだ長門との日常は、他ならぬキョンの決断によって水泡に帰した。もしかすると、その本来ありえないはずの長門のあり方にこそ、観客は胸を打たれ、より多くの長門有希信奉者を生み出すのかもしれない。
以上のように見れば、本作品は、決して弱音や愚痴を吐かないがために、かえって世界そのものを変えるという暴走をした、とある無口な少女の「心」の軌跡、とも言えるだろう。その「心」は、存在すら不確かなものではあるのだが。本来の長門有希は、すべての事象を合理的・計算的に把握し、世界をデジタルに見通す力を持っている。だが、だからこそ、自身に生じた合理的に理解しきれない感情には全くの無防備であり、つもったバグでコンピュータが突然クラッシュするように、暴走した。デジタル世界の申し子のような長門が、バグ(感情)によって、自分の存在を根底から揺さぶられ、世界自体を変えざるを得なかった。
ここに筆者は、何事にも計算的に対処するクールな時代のただ中で、奇妙にも現れる実存主義的状態を感じたのだった。なぜなら実存主義的に見れば、自分という存在とは、世界を観察したり、その真理を解明する客観的な傍観者でなく、そのつど得体の知れない衝動に突き動かされ、否応なく自身の人生を生きざるを得ない当事者としてあるからだ。単なるインターフェースであるはずの長門は、そうした実存主義的主体になるはずはない。そのあり得ない変貌ぶりが、本作における長門有希の特異なあり方を際立たせているように思われる。
最後に、本シリーズが典型とされるセカイ系的な要素との関係性を考えてみよう。本作品では、先述の「セカイ系」の構図と、その構図を崩すような力のせめぎ合いを見ることもできそうだ。というのもこの作品では、長門個人の極めて主観的な願望が世界そのものを改変してしまう前半と、そうしてできた「セカイ」に惹かれながらも抗うキョンを描いた後半とが、作品全体に切ないとも言える緊張感を漂わせるからだ。セカイ系は、どこか実存主義に通じるものがある。なぜならそれは、自分の全存在・世界を、ただ一人の人間に託してしまおうとする、決然とした覚悟を感じさせるからだ。それは「決断主義」とも言われる、時に滑稽にも見える大仰な覚悟と通じている。
しかしキョンは、長門が人格を失ってまで願った、そのセカイ系=実存主義的つながりを選択しなかった。むしろ、別種のセカイ系的キャラクターであるハルヒやその他のメンバーとの間で、生きていくことを選んだのである。そして長門にも、ハルヒが司るこのセカイで、掛けがえのない仲間として共に生きることを望んだ。それは、本当に長門が願ったセカイではないかも知れない。こうしてセカイ系/脱セカイ系の力が弁証法的にせめぎ合う。そしてその微妙なバランスは、この内面の見えない少女によってミステリアスな形で引き起こされている。もしかすると、それが作品世界に読者・視聴者を惹きつける力となっているのかも知れない。この決して見えない心の「セカイ」を巡って、今後のハルヒシリーズがどのように展開するかも、筆者の楽しみである。
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