« 建築なう!『グーグル的建... | ドネルモ版『RIP!』シ... »

ドネルモ.func(2)「シミュラークルとしての安室奈美恵」Part.2 講師:古賀徹


構成:佐々木まどか・牛島光
編集責任:宮田智史

 大変お待たせ致しました。3月27日に開催された第2回ドネルモ.funcのPart.2の模様をお届け致します。Part.1をご覧になった方は、古賀さんがどういった視点から「安室奈美恵」を考えているのかが分かってきたと思います。後半は、安室のダンスから最近の動向までが語られます。それではご覧下さい!

file128.jpg 

前半のまとめ

宮田
それでは後半の部を始めさせていただきます。前半で古賀さんは、絵画の歴史に関連させながら、「シミュレーション」のお話をなさっていて、それが個人的には非常に分かりやすかったです。一見すると、印象派やキュビズムといった絵画様式は、私たちの眼の前にある現実とは異なる世界を描いているように思えます。ただ、古賀さんの説明のように、そうした絵画作品は現実を参照項としつつ、それを超えるような<新たな現実>をキャンバスに描こうという試みです。したがって、現実をシミュレートした「シミュレーション」だといえます。しかし、一方で、20世紀中頃に登場した「ポップアート」は、複製技術の進歩と大量生産・大量消費が当たり前になった社会を反映するかのように、もはや現実に依拠することなく、「シミュレーションのシミュレーション」をし始めたわけです。そして、私たちは、そうした「シミュレーション」が無数に反復された商品や創作物を日夜,目の前にしている。そのような中で、安室は現実のシミュレーション、正しくはアメリカのHIPHOPやR&Bのシミュレーションをやめ、表現すべき切実な現実とは手を切り、使い古されたイメージを幾重にもシミュレートし始めた。これが安室の変化だと古賀さんは仰っていたと思います。

 一点だけ、私の方から前半話にあがった50centに関して補足させて頂きます。一般的に50centは、「ギャングスタ・ラップ」というジャンルに位置づけられています。このギャングスタというのは、暴力的な言葉や過激な性的表現、銃声やクラッシュ音などを使用するアーティストたちの総称で、50centは近年最も存在感のあるラッパーの一人です。ただ、ギャングという響きは、中々ハードですが、実際にはある種の男らしさを表す言葉でもあるんですね。ただ、重要なことは50centの場合、本当にギャングだったということです。もちろん、以前から実際にギャングだった、あるいはギャングだったらしい人たちはいた。ただ、50centが売れたのは5、6年前くらいなんですが、その頃はギャングスタと名乗りながらも実際は結構真面目だったりするっていう人が多くなっていて、“本当におまえらギャングスタなのか”という批判があったんですね。そんな中で、この50centはマジでギャングだった(笑)。それが彼のラッパーとしての地位を高めた要因でもあったわけです。音楽性とはまた別の観点なんですけど、みんな衝撃を受けて。

この50centの例が端的に示すように、50centの方が自称ギャングスタよりも、より強固なシミュラークルの配置をとっていたということです。それにより、その他大勢のラッパーの中で、群を抜いて存在感が生まれた訳です。ただし、この場合は、安室と違って、ポップにではなく、ギャングスタが持っているイメージを<リアル>という切り札を使って高めたと言えますが。このことが、よりウケるというか、ファンが多くなった要因の一つであるのではないかと思います。補足は以上です。

 

ダンスはリアルがお好き

古賀
ありがとうございます。後半はダンスの話から始めたいと思います。安室のダンスに関しても、私の周りでは大変評判が悪いです。というのも、「ちゃんと」ダンスをやっている人から見ると、安室のダンスは、アイドルの踊り、アイドルの振りであると思われているからです。可愛い女の子が踊っていてなお可愛いというわけです。実際にアイドルの振りであることは間違いないんですが、ちょっと違った観点から見てみると、そう簡単に片付けることはできないと思います。

その話に本格的に立ち入る前に、ダンスの基本的な考え方について、バレエの『白鳥の湖』を例にして説明してみます。『白鳥の湖』においてバレリーナの振りは、現実の白鳥の動きを模倣しているわけです。つまり外界の模倣としてのダンスです。このように、外界にあるものを実際に模倣するというのは、ダンスの一つのあり方です。もちろんこうした表現は、先ほど説明した絵画の場合と同様に、参照すべき現実があって、それをシミュレートするという構図をとっています。

もう一つのあり方は<内面の表現>としてのダンスです。これは、自分の心の中にある、例えば恋の熱情や悲しみといった感情を身体で表現するというものです。とはいえこうした感情といった抽象的な事柄も内面にある現実です。つまり、自分が感じ取っている現実を身体でシミュレートしているわけです。ダンスはさしあたり、この外界の模倣か内面の表現のどちらかに分けることができます。

ところが、20世紀になると、それ以外のダンスのあり方が登場してきます。例えば日本では、踊っている身体のリアリティを提示するダンス(舞踏)が登場します。簡単に説明すると、私たちは、自分の身体を“こういうものだ”と思い込んで生活しています。けれども、実際に舞踏をやっている人たちは、人間の身体を自分たちの常識的な見方を遥かに超える能力とか潜在性を備えたものだとみなし、それを一生懸命表現しようとしているわけです。例えば、和式トイレの中に手を突っ込んで、詰まっているものを取り出す、といったモティーフを考えてみましょう。この動きを徹底的に突き詰めていくと、自分の身体が「実際にこのように動くんだ」という、思っても見なかった身体の真理を知ることができるわけです。そこでは、ふだんあまり知られていないような、そういう身体あり方がリアルなものとして主張される。外界でも内面でもない、要するに身体というメディア、人に何かを伝える道具そのものの真理を振り返って表現するというわけですね。外面、内面、その中間の身体メディア、この三者について言えば、踊りの表現の対象がいずれも現実であるという点、つまりリアルなもののシミュレーションであるという点ではみな同じなのです。

IMG_1276.JPG

シミュレーションとしてのダンス

古賀
それでは安室のダンスとは何でしょうか。もしくは「AKB48」のダンスを例にとってもいいのですけども、彼女たちの振りについてどのように考えることができるでしょうか。つまり、<popなダンス>とは何かについて次にお話したいと思います。popというのは、コピーのコピーであるという点にポイントがあります。要するに、それは現実の何かに対応していないわけですね。仮に対応するものがあるとすれば、かつてなされたシミュレーションに対応していて、それとの差異が<popなダンス>を成立させているといえます。それは、これまでのダンスとは「ちょっと違う」という微細な差異を見せることによって成り立つダンスだということです。つまり「シミュレーションのシミュレーション」。安室のダンスは現代資本主義社会のありようそのものと同期し、それを結果的に表現していると言ってもいい。

こうした観点を理解しないで安室の踊りを観ると、彼女は踊ることによって一体何を伝えたいのか、あるいは何をしたいのかが全然分からなくなるわけです。おそらく安室を嫌いな人は、彼女のダンスの背後に何か「リアル」なものを探そうとして、それが存在しないので低い評価を下しているのではないかと思います。楽曲に関しても同様です。例えば、浜崎あゆみなどは「心の底から伝えたいこと」が割とはっきりしているように見えます。けれども、安室は何をやりたいのか全く分からない。だからこそ、その「キッチュ」な部分を表面的に捉えて、コンテンポラリーダンスの関係者からストリップダンスとか侮蔑されたりするんですね。つまり安室は、刺激的な姿を見せて、女の子のカワイイところやカッコイイところ、セクシーなところを過剰に表現しているだけのように見られるわけです。実際に可愛くてかっこよくてセクシーなのですが・・・売れさえすれば何でもいいのだ、商業的だ、資本主義だ、産業の操り人形だ、どうせエイベックスでしょう、という批判も同じです。ちなみにこんな批判をする関係者が周りにわんさかいるファンは、私だけのような気もしますけど。

 

シミュレーションとしての日常

古賀
安室がやろうとしている「シミュレーションのシミュレーション」は、じつは私たちもまた、日常的に行っていることなんです。雑誌や道行く人のファッションを参考にして自分の洋服を選んだり、昨日の自分の服装をちょっとアレンジしてみて新しい自分に挑戦したりするのと全く同じです。つまり、外界や内面の表現でもなく、メディアとしての身体の可能性の表現でもないとすれば、アイドルダンスとは、自らに先行する踊り、もしくは振りに対するシミュレーションの連鎖だということです。前の人がどう踊ったのかを「まねて」みる、もしくは自分の右手の動きを「まねて」左手を動かしてみる、そうした右手と左手の動きのリズムを「まねて(それに対応して)」足を動かしてみる、といった具合です。どこまで遡っても、そこに「現実」はない。ファッションにたとえて言えば、芸術品のような一品仕立てのオートクチュールでもなく、都心の路面店の高級ブランドでもなく、天神コアとかジャスコによく似合います。

最初に話しましたが、安室を馬鹿にしているインテリたちが何をやっているかといえば、昔の人の書いたものを読んで、それをつぎはぎして、謎の文章を作ってそれを原著論文とか称しているわけです。つまり、安室がやっていることとかたちは一緒なんですね。ここまで考察が進んで、私は“そうか!”と思ったわけです。そのとき私は、こんなにも安室に惹かれる理由がわかったのです。彼女はボクがやっていることと同じことを、しかもボクより上手にやっている、だから憧れちゃうんだ、って。これを一般に、哲学者の自己省察といいます。

 

シミュレーションとしての歴史

古賀
安室が「60s 70s 80s」という、3シリーズを出したとき、私は衝撃を受けました。まずは、この「NEW LOOK」♪を聞いて頂きましょう。この曲は、アメリカの60年代をシミュレートした作品です。60年代にミニスカートブームを巻き起こした「ツィギー」(*1)というモデルをピックアップしてきていますね。要するに、50年代から60年代にかけて出現したアメリカの消費社会においてみんなが夢見たような生活をシミュレートしているわけです。しかしこのPVには、60年代のファッションアイテムがたくさん出てきますが、それは当時のままでは出てこないんです。ここが面白いところなんです。すべてのアイテムが現代風にアレンジされていて、現代の60年代「風」ファッションというかたちで洗練されて登場してきます。全部がリファインされ、構成し直され、モデルとして提示されているのです。これをインテリの世界では「解釈」と呼びます。

次に見てもらうのが、「ROCK STEADY」♪です。この作品は、公民権運動(*2)後の70年代のアメリカを扱っています。50年代から60年代にかけてアメリカでは、差別的な処遇を受けていた黒人や女性の地位を問題化する運動が全米各地で盛り上がっていました。その後、権利の実現とともに70年代には、権利を獲得した黒人や女性たちがアメリカ社会の表に出てくるんですね。デビューの時代です。このPVもそうした社会的背景に即して作られています。ここで安室は、外部から単身車に乗って町にやってきて、ストリートに出て踊ります。先程紹介したジャネット・ジャクソンのPVとは対照的ですね。あの作品は黒人のみの閉鎖されたクラブを舞台にし、黒人たちの解放の瞬間を描いていました。

一方、この安室のPVは、その閉鎖された空間の前に横たわっている公共の空間、つまり白人も黒人も、男も女もいるストリートを舞台としています。60年代には抑圧されていたマイノリティが、70年代には解放されて自分のゲットーから抜け出し、社会の表舞台にただ一人身をさらす。扉を開けて最初に出会うその瞬間、その場所がストリートなのです。つまり、この作品は70年代のストリートという場所と時代を、出来合いのイメージを切り貼りすることで、制作者なりに精緻に捉え直しているわけです。さすがと言わざるを得ない。ここには、人種だけではなく、ウーマンリブ(*3)とかフェミニズムといった側面がある。女性が自分の力だけで世の中に出ていく、という物語です。こういう神話が力を持つようになった時代に対する一つの解釈です。作品では、安室はストリートから娯楽産業を駆け抜けて、最後は行くとこまで行きついて、「タイム」の表紙を飾るまでになります。こうした出来あいの出世イメージをシミュレートすることで、過去をひとつのモデルとして提示し、その解釈を示す。これはまさにpopの真骨頂だと言えるでしょう。

80年代をテーマにした「What A Feeling」では、70年代の社会進出という神話が終わって、行き場がなくなった様子、暗くてダーティな雰囲気が見事に表現されています。もはや、個人が異質な他者たちのあいだで何かを成し遂げ認められていくのではなく、踊っている人間の相手を地下のクラブでしてくれるのはロボットなのです。機械やシステムを相手に踊るしかない、そうした80年代の状況を適切に示唆しています。PVや音楽には80年代のアイテムがいっぱい使われて、それが解釈され、見事にまとめ上げられていますね。では、90年代はどうなのでしょう。私は「SEXY GIRL」♪が90年代に当たるのではないかと思っています。90年代はさらに退廃して、クラブは孤独な身体の病的な寄せ集めの場の様相を呈している。時代をそれぞれシミュレートして、こういうふうに解釈して、時代を見せていくというかたちをとっているわけです。共同性の変遷がシミュレーションの中で表現されているのです。

ここで強調したいのは、安室のこうしたシミュレーション行為が、60年代や70年代の「真の姿」を描いているのではないという点です。それはありそうなモデル、つまり説得力のあるフィクションなのです。しかしそのフィクションを通じてしか、私たちはその時代をイメージすることができない。そういう意味で、フィクションのみがリアリティの回路を開くことになる。それは、真理がもはや失われていることを虚構をつうじて否定的に示しており、なおかつ、虚構を通じてのみ「ありそうなこと」を構成するしかないことを肯定的に示しているのです。

 

シミュレーションとしてのキッチュ

古賀
それでは最後に、最新作の「FAST CAR」♪を少し観てみたいと思います。これはゴスロリですね。これがシミュレーションだっていうことは誰にでも分かる。リアルな何かを表現しているという雰囲気はもう全然ない。にもかかわらずシミュレーションとしての精度を上げていくと、シミュレーションとしての固有の新しい実在性のようなものが生まれてきます。ゴスロリやコスプレというのはキッチュな出来あいのイメージだと考えられてきました。彼女はそうした素材を用いることでみずからキッチュな表現をしているのではなく、「キッチュ」というイメージを対象として精巧に再構成していることがわかります。キッチュな素材をシミュレートし、「キッチュなもの」として提示することで、ゴスロリは、もしくはコスプレは、そのキッチュなあり方から抜け出すことになる。

小説や映画はフィクションです。それは殺人や暴力を描きます。現実の殺人や暴力は悲惨なものであり、忌むべきものです。しかしそれがフィクションとして精密に構成され、提示されるとき、観客はそこからいろいろなものを引き出すことができる。フィクションとして暴力を「描くこと」で、過去のリアルな暴力を裁ち切り、それを未来につなげることができるのです。そしてそのフィクションを作り出す行為こそ、シミュレーションなのです。

過去にすでに存在したものをもう一度シミュレートする、そうすることでそれを生まれ変わらせる、その転換の中にしか、いまや思考は、そして未来は存在しないということが主張されているかのようです。”PAST<FUTURE" です。そういうシミュレーションの連鎖こそが我々の「思考」なのだ、その連鎖の差異のなかにしか現実はないんだ、そうしたフィクションの連鎖をこそ、胸を張って生き抜いていくんだ、というように宣言しているかのようです。模倣だからまがい物だ、ニセモノだ、内容空疎で低劣だ、という物の見方がいかに一面的で貧しいものにすぎないか、わかって頂ければ幸いです。

 

ライブに行ったよ♡

古賀 
昨年は、安室奈美恵のライブ「BEST FICTION TOUR 2008-2009」に行ってきました。福岡と別府、二回も(笑)。史上最高の出来だったと私は思いました。お客さんも盛り上がりましたよ。ただし本人はまるで移植手術における心臓外科医のように冷めている感が伝わってきます。正確無比な機械、自分の身体と観客の感情を操る冷徹なオペレータのように感じてしまう。ときおり彼女ははじけるような笑顔を見せるのですが、それも全部計算されているように思えるのです。笑顔を含めたすべての要素が、仮面として、シミュラークルとして配置されている。見ているこっちが冷や冷やしてくるような雰囲気を感じさせる。完璧に仕上げて会場を極限にまで盛り上げるんだけど、君が見ているのはフィクションだよ、作り物なんだよと同時に突き放す。リアリティはフィクションの中にしかない、そしてそのフィクションこそがこの社会の唯一のリアリティなんだよ、その中で君と私は踊っているんだよと、とても冷めている。このかぎりで彼女の仕事は、ウォーホルにとても近いのかなと思います。しかしウォーホルと違うのは、彼女がこうした事態をある意味で肯定的に捉えていて、自らを積極的にシミュラークルと化しながら、消費社会のただ中でシミュレーション機械の可能性を徹底的に追求しているところです。

今回は、彼女のヴィデオやダンスといった視覚的な部分を中心にお話しました。音楽に関しても同じようなことが言えるのですが、それはまた次回のお楽しみとしたいと思います。私からの話は以上です。何かご質問のある方はいらっしゃいますか?(Part.2終わり)

つづきは、ドネルモ.func(2)「シミュラークルとしての安室奈美恵」Part.3をご覧下さい!

 

 

 

 

 

会場の模様

IMG_1271.JPG

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「白鳥の湖」

 

 

 

 

 

 

身体のリアリティを提示するダンスの例
土方巽(日本)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「言い訳Maybe」AKB48

開始から約2分後にダンスが始まります。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「NEW LOOK」安室奈美恵

 

「ROCK STEADY」安室奈美恵

 

「What A Feeling」安室奈美恵

 

 

(*1)「ツィギー」

1960年代後半のトップモデル。

ツィギー.jpg

(*2)公民権運動

1950年代から1960年代にかけてアメリカの黒人が、公民権の適用と人種差別の解消を求めて行った大衆運動。

 

(*3)ウーマンリブ

1960年代後半にアメリカで起こり、その後世界的に広がった女性解放運動。

 

「SEXY GIRL」安室奈美恵

 

 

 

 

「FAST CAR」安室奈美恵

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

BEST FICTION TOUR 2008-2009


 

----- clear -----

 

 

 


10/06/02 01:04 | コメント(0) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

« 建築なう!『グーグル的建... | ドネルモ版『RIP!』シ... »

関連記事

| ドネルモ.func(2)「シミュラークルとしての安室奈美恵」講師:古賀徹 PART.1 | ドネルモ.func(1)「『1Q84』から読む建築」(講師:土居義岳)レポートPart1 | [10.03.27]ドネルモ.func(2):「シミュラークルとしての安室奈美恵」古賀徹 | 安室奈美恵、痕を押された身体の自由【ドネルモアーカイブ】 | BOOKSTEADY Lesson.1 8/13「ドゥルーズレッスン器官なき身体、欲望する機械について」 PART.1 | BOOKSTEADY Lesson.1 7/23「ドゥルーズレッスン 差異と反復、リトルネロの論理について」PART.2 |


トラックバック(0)

トラックバックURL: http://donnerlemot.com/mt/mt-tb.cgi/696

コメントする