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ドネルモ.func(2)「シミュラークルとしての安室奈美恵」Part.3講師:古賀徹


構成:佐々木まどか・牛島光
編集責任:宮田智史

いよいよラスト!3月27日に開催されたドネルモ.func(2)「シミュラークルとしての安室奈美恵」Part.3をお届け致します。シミュレーションを通じて、いかに高精度の<フィクション>を構想するか、このことが消費社会における創作の鍵を握るようです。「リアリティはフィクションの中にしかない」という古賀さんのお言葉はとても示唆です。Part.3では、講演を終えた後、参加者との活発な質疑応答の模様をお伝えします。Part.1Part.2もあわせてご覧下さい!

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質疑応答

シミュレーションと化した現実

参加者Aさん(20代男性)
まず、古賀さんのお話では、本場のアメリカのR&BやHIP-HOPは人々のリアルな生を表現するものだった。これに対して日本の表現は、アメリカのように差別や抑圧からではなく、むしろ、シミュレーションが何重にも連鎖した状況から生まれてくる。そうであるゆえに日本のR&BやHIP-HOPは嘘っぽくみえてしまう。だからこそ安室奈美恵は、自分たちの現実にはそぐわない<リアルな生>に依拠することをやめて、ひたすらシミュレーションの精度を上げて、現実よりも密度の高い現実、つまりハイパー現実を構築しようとした、と古賀さんは論じます。そしてそうした彼女の方向性を古賀さんは評価していたように思います。

しかし安室を好きな人の中には、彼女の作品のなかに彼女のプライベートな人生、あるいは自分たちが日常的に抱える<リアルな生>を重ねて聞いている人もいるのではないでしょうか?いま安室は中国や韓国でも人気があるそうですね。もしかすると、ある時期の黒人と同様、彼らは安室のことを、自分たちが抱える日常的な問題や抑圧の現実を代弁してくれる存在だとみなしているかもしれません。そうすると、アメリカ的リアルな生を表現する「HIP-HOP」とシミュレーションの精度をひたすら上げていく安室的な「HIP-POP」の間に、本質的な違いは存在しないことになりませんか?

古賀
そうかもしれません。ただ問題の本質は、安室奈美恵が依拠している<現実>とは何かということなのです。もちろん私たちが日常的に生活を送っている<現実>がなくなるわけではない。しかしながら、その<現実>とは、シミュレーションに覆われ、それによって成り立っているものなのです。シミュレーションが全面化した世界においては、可能性や抑圧もまた、シミュレーションのありかたのなかでしか感知しえない。だから、人々が彼女の歌に自分の人生や現実を重ねて歌を聴いていて、その意味で彼女の歌がリアルなものの表現になっているとしても、そのリアルというものがすでにシミュレーション、つまり一つの虚構なのですから、「シミュレーションのシミュレーション」という彼女の本質的なあり方は変わらないのです。

とりわけアジア諸国においては、イメージを排除して「本物」を追求するという文化的伝統は西洋ほどに強固ではなく、その点で中国や韓国は日本と共通する文化的土壌を持っていると思います。だからこそ、日本と同様に「シミュレーションのシミュレーション」というあり方が受け入れられやすいという面もあると思うのです。逆にアメリカで安室奈美恵が成功するのは、アジアほどに容易ではないでしょう。なぜなら、アメリカには、「本物」の強固な感覚が一つの文化的な規範として残っているからです。つまりイメージとリアルの関係で物事を考える図式がいまだ説得力を持っているということです。欧米ではいまだに、たとえばアニメは実写映画より価値が低いという見方が残っています。もっとも最近ではそれも弱まりつつあるのでしょうけれど。

しかし、日本や中韓では、“安室のように振る舞ってみたい”、“シミュレーションしてみたい”、“二次創作をかっこよくやり抜きたい”と多くの若い人たちが無意識のうちに考えている。けれども、それは見かけほど簡単なことではない。実際にやってみると、どうにもうまくゆかない。なぜかいつも「残念な」結果に終わってしまう。そういう人たちに対して、安室は解放感をもたらすわけです。自分たちができないこと、自分たちがやっても到達できない完成度の水準を、安室の中に見出すのです。

 

コピーにおける解放と抑圧

参加者Bさん(40代女性)
「COPY THAT」という曲のモティーフはOLさんでしたね。ただ、そのOLたちが抑圧されていないわけではない。彼女たちにはコピーしかできないという現実があるわけです。ここでいうコピーには、職場での実際のコピー取りの仕事だけではなく、例えば、ファッション雑誌や他の女性たちが着ている洋服を真似するという意味でのコピーも含まれています。そして彼女たちは、そのような反復の現実に倦んでおり、疲れ切っているわけです。つまりコピーが自分の可能性を広げていくことに繋がらないのです。そうした現実においてシミュレーションや二次創作におけるコピーが解放を意味すると、なぜ言えるのでしょうか?むしろ、反復が延々と続くこの現実は閉塞感に満ちていると私には思えてしまいます。

古賀
たしかにコピー取りの仕事を低賃金で延々と強いられては、それを解放と感じることは難しいでしょう。しかしそのコピー取りは、そこに生き生きした解釈の余地を許さないデッドコピー(死んだコピー)なわけです。これに対して二次創作やファッションの模倣は、自分で解釈を加えながら自分なりのいわばオリジナルを作っていく行為です。安室はそれを先端的で商業的な水準で達成する。一般の人もファッション雑誌をみて同じようなことをやっている。もちろんその表現の水準や能力に差異はある。しかし一般の人も“私の着こなし”というようなものを見つけてそれなりに満足感を得る、そういう現実がやっぱりあるわけです。

そしてそうした二次創作の日常、消費の毎日に、いまのOLさんたちが疲れているということもあるでしょう。”自分なりの着こなし”が常に要求され、そのセンスを競い合ういわばJJ的現実が強制されているという面もあると思います。しかしそれが強制や閉塞として意識されるがゆえにこそ、そうした閉塞を突破する水準で易々と、華麗にかっこよく二次創作をやってのける存在に憧れるということもあるでしょう。

参加者Bさん
最後にご紹介された『Past<Future』のDVDのジャケットは、コピーした安室の顔をびりびりと破いた後に、ぱっと出てくるのが、やっぱり安室の顔、しかもそれも絵として描かれた顔というものでした。なんでしょう。あれは本当にもう、解放とか抑圧とか、そういった感情を突き抜けた先にあるものという印象を覚えました。

古賀
本当にそうですね。このジャケットはとても批評的だと思います。『Past<Future』と書いてあるように、過去より未来の方が大きい、つまり可能性に満ちていると主張しているような振りをしながら、しかし過去を破いてもまた同じ顔が出てくるわけです。安室は凄いことをやるなあと思って、ほんとウォーホルだなあと思って、いつもこのジャケットを眺めています(笑)。

参加者Cさん(30代男性)
安室奈美恵とアートや現代思想の話がクリアに結びつけられていて、とても分かりやすかったです。ありがとうございました。ただ一点、皮肉な話だなあと思ったところがあります。それは、コピーのお話です。本来、コピーは気楽なものだったはずです。コピーはオリジナルの真似のはずなのに、コピーの方が実は優れている。この構図は、オリジナルにこそ価値があるという考え方に対して、ある意味で痛快ですよね。オリジナルに近い人が偉い、という特権的なヒエラルキー構造がここでは意味をなさなくなる。でも安室ぐらいコピーの精度、そのセンスが高まると、先程古賀さんが仰っていたように、それはそれで一つのオリジナルになってしまうわけです。そうすると、コピー上手とコピー下手のあいだに歴然とした差が生じてくる。安室は本物だと尊敬され、下手な人はコピーだと蔑まれる。だとすれば安室は、オリジナルとコピーをめぐる抑圧のあり方を再生産しているとも考えられる。

古賀
なるほど。

参加者Cさん
たしかに安室はコピーを通じた解放のありようを示しているとは思います。でも、その方向性は間違っている。というのも、安室自身はそれで解放されたかもしれないけれども、見ている側はそれによってさらに抑圧されていくような気がするからです。もちろん、安室の作品は二次創作ではあるんだけど、一般的に言われる二次創作が持っている解放感と、安室がやっている二次創作の解放感は質が違いますよね。好き勝手やって誰にも見られることもなく自分で満足できていればいいという意味の二次創作ではなくて、安室の場合はやっぱり人に見せるための二次創作になっています。人に高く評価されるレベルまで徹底的に鍛え上げられている。そうした意味では、安室の二次創作の場所はコミケやユーチューブではなくて、舞台であり映像芸術であり、つまりハイアートの世界なんですよ。サブカルではないですよね。安室は、ものすごく上手く消費社会を乗りこなしているハイパーな人というイメージですね。

古賀
私が惹かれるのがAKB48ではなく安室なのは、たぶんそうした理由によるのだろうと思います。「どうよ?」と言わんばかりの、舞台や映像から人を見下す傲然とした彼女の目線に、私は感じてしまうのかもしれません。アルバム『Play』のジャケットの彼女の眼。「あなたは残念な人なのよ、二流のコピーなのよ」と言われている気がする。彼女を見ると抑圧を感じるがゆえに喜びを感じる。告白せざるを得ません(笑)。「シミュレーションのシミュレーション」においてリアルと虚構がない交ぜになっているように、抑圧と解放もまた、あざなえる縄のごとく、きっぱりと二つには分けられないのです。

宮田
通常の二次創作であれば、それはフィクションのラインナップというか、たんなる羅列のはずです。ただ、安室は、たんなるフィクションではなく、<Best Fiction>だと言っているわけです。その時点で、通常の二次創作が持っている言葉の意味とは違う方向性を目指していることが分かります。精度の高いフィクション、つまり「ベスト」を捏造することが目的なのです。そこに古賀さんは感銘を受けるわけですね。

古賀
そうです。その通りです(笑)。他に質問はありますか?

参加者Dさん(20代女性)
安室奈美恵と某お笑い芸人の交際発覚についてどう思われますか!?

古賀
あれは大変な事件でしたね。本当にもう。今年一番の事件でした…

参加者Dさん
私も、フィクションの世界の住人であったはずの安室のリアルな恋愛を見せつけられたことがショックでした。

古賀
私もそうです。彼女が遊ばれているんじゃないかと思って、とても心配です。Playする人のはずなのに、Playされているのでは、と。

宮田
親目線のコメントありがとうございます。他にご質問などございますか?

 

<裂け目としてのリアル>という転換

参加者Eさん(30代男性)
いかに現実がシミュレーションによって構成されているとはいえ、今、お話しされたように、安室が誰かと付き合っているというような如何ともしがたい現実は確かにあるわけですよね。とすれば、すべてがシミュレーションだとしても、“死ぬ”とか、“体調が悪くなる”とかいった意味で、どうしても消せない<現実>がやはりあるのではないですか?そういったどうしても抜き差し難くあるリアルな感覚が、まだ残っている中で、すべてはフィクションである、だからフィクションを突き詰めるのだという安室の戦略は、はたしてどこまで有効なのでしょうか?

古賀
現実だと人々が思い込んでいるものこそがフィクションなのだとボードリヤールは言っています。例えば、9・11テロで世界貿易センタービルが倒壊しましたね。しかしこの現実の事態は、ハリウッド映画で何度も描かれてきたおなじみのイメージをまるで再現しているかのようだった。つまりこの事件は、ハリウッド映画の二次創作的なシミュレーションのように見えなくもない。現実の事件の方が「シミュレーションのシミュレーション」になっているわけです。そうするとそれはすでに純粋な現実とは言えないわけです。すでに存在しているフィクションのシミュレーションとして現実の事柄が生起するわけですから、それはシミュレーションにいわば汚染されている。私たちはそうした世界を生きているわけで、そこには純粋なリアルはどこにも存在しないのです。

ただしここで自分が生きているということ、そして死ぬこと、こればかりはリセットできない。一切のシミュレーションが成立するすべての根底になっているといってもいい。すべてはシミュレーションだといっても、自分が死んでしまったら、すべてが終わりなのですから。私たちはシミュレーションにどっぷりつかって、その中でぼんやりと自分の死を意識します。それは一切のシミュレーションを超える事態であって、私たちはそこになにかリアルなものを感じる。自分が年をとって、身体が衰え、死に向かっているということだけは、いかなるシミュレーションによっても書き換えることが出来ないのです。

とすれば、ここで<リアル>の概念が転換することになる。そこで<リアル>は、シミュレーションが模倣する対象としてそれに先立つものではなく、シミュレーションの後から生じる、シミュレーションの限界として意識されることになる。つまり、シミュレーションが全面化したただなかで、シミュレーションではあり得ない裂け目として、リアルが表出するというわけです。シミュレーションに対して、そのシミュレーションの裂け目をリアルと呼ぶ、というようににリアルの概念が転換してしまうわけです。少し難しい話かもしれませんが。

安室についていえば、彼女が年齢を重ねているということは、彼女が自分をいかにシミュレートしたとしても、その根底で進行していく事態であり、これにいつまでも対抗することは難しい。写真やビデオではかなりの修正が施されていますが、昔の映像とは全然違います。シミュレーションのうちに包摂できないような、その限界として、身体のリアルっていうのに、たぶん我々は直面するのだと思うんですよね。

 

1980年代後半に、当時トップアイドルだった岡田有希子(*1)が自殺するという事件が起きたことをご存じですか?この事件は、ファンにとって、シミュレーションの裂け目に落ち込む事態だったのだと思います。テレビや雑誌などの岡田有希子のイメージに没入して生きていて、そのうちに住み込んでいたはずなのに、ある日突然そのイメージが断ち切られるわけです。そのときにファンは<リアル>を、限界として、暗黒や無として、思い知らされる。広告を考えてみればわかるんですけど、広告は全部シミュレーションの世界です。ただ、どうしても広告になじまない要素が存在するのもたしかです。時間が巻き戻せないような出来事は、シミュレーションに馴染みにくい。

しかし、逆に言えば、馴染みにくいものであればあるほど、逆に最も強力なシミュラークルとして、強力なシミュレーションを構成することができるわけです。その端的な例がテロや戦争です。戦争ではたくさんの人が死にます。イラク戦争でも、ものすごい数の人が亡くなりました。つまりシミュレーションではない本当の<リアル>が突如我々の前に現れるわけです。そして、そうであるがゆえに、そうした裂け目を備えたシミュレーションは強度を獲得し、もっとも流通力のあるシミュレーションとして機能してしまうわけです。9.11のテロの時は、飛行機が高層ビルに突っ込むあの映像が、リアルなものとして、『ダイ・ハード』よりはるかに人気を博してしまった。

ボードリヤールは『湾岸戦争は起きなかった』というタイトルの著作を書いています。ボードリヤールは、湾岸戦争はいわばフィクションなんだと主張したわけです。こうしたボードリヤールの主張に対して、スーザン・ソンタグ(*2)は、湾岸戦争はシミュレーションではない、前線に行ってみろ、人がいっぱい死んでいる、と激怒した。つまり、湾岸戦争はリアルなのか/シミュレーションなのかという論争が巻き起こったのです。では、なぜソンダクにこうした発言が可能だったのか。それは彼女自身がいろいろな戦争の最前線に行って、戦争を自分の目で見ていたからなのです。彼女は自分が眼にしたこと以外については語るべきでないとも言っている。リアルな事態についてのリアルな言説。究極のリアル主義者です。しかし、ボードリヤールは、“実際に目の前で人が死んでいる”という映像や文章の語法そのものが一番流通力のあるシミュレーションを構成するんだ、と指摘しているのです。そういった意味で、リアル主義者、とくにリアル主義の道徳家を私は嫌います。なぜなら彼らや彼女たちは、自らがリアルであること、真摯であることを主張することで、懐疑的であったり距離をとったりする立場に対して非道徳的だと言いつのり、自分の言説をより際立たせて覇権を握ることに熱心だからです。そうしたふるまいが、たちの悪いシミュレーションを構成していることに無自覚なのです。彼女らはじつは、自分をこそ真理/真摯だと思い込んだ無自覚なシミュレーショニストに過ぎない。嘘臭くってしょうがない。これに対して自覚的なシミュレーショニズムは、自分の目で見たといったような、単純な知覚に依拠する<リアルな主張>こそが最悪のフィクションを構成してしまうことを知り抜いています。世の中にはフィクションしかない。だからこそフィクションの「ありかた」、「ふるまいかた」に対してとても敏感になることが出来るのです。安室奈美恵は、ソンタグのような真摯型知識人がおよびもつかないような地点に到達しています。

宮田
そろそろ時間のようです。今日は長時間どうもありがとうございました。

(おわり)

 

 

 

 

(*1)岡田有希子

1980年代中期のトップアイドルの一人。ポスト松田聖子として期待され、活躍していたが、アイドルとしての絶頂期に自殺している。

 

 

(*2)スーザン・ソンタグ

人権問題についての活発な著述と発言でその生涯を通じてオピニオンリーダーとして注目を浴びた。批評家としてベトナム戦争やイラク戦争に反対し、アメリカを代表するリベラル派の知識人として活躍した。2003年にドイツ出版協会の平和賞を受賞している。

 


 

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10/07/07 23:05 | コメント(0) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

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