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建築なう!『グーグル的建築家像ってなぁに?』 part3


構成:原口唯

「建築なう!」は建築をキーワードにしながら、その先にある都市、社会、人々のありかたを考えるトークアラウンドです。建築の専門家、建築系学生、建築なんて全然分かりませんという人たちがあれこれとお喋りしていきます。

第一回目は、2009年5月に発売された『思想地図vol.3』に掲載された建築家・藤村龍至さんの論文「グーグル的建築家像をめぐってー<批判的工学主義>の可能性」がテーマです。part1part2もあわせてご覧下さい。

若干(?)迷走気味のこのおしゃべりも、とうとうこれで最後です!ようやくはじめのマイケル氏の質問にみんなが答えていきます。

 

 

ようやく本題に

マイケル
最初の話に戻るけど、今までどうして藤村さんのようなやり方にならなかったんですか?建築家って普通、模型を作ってログを残してるんじゃないんですか?

tangerine
藤村さんのようなやり方、っていうのは、施主と対話して、その対話内容は模型の形で残しておく、っていうところを指しているんですか?

マイケル
そうですね。普通にやっていたことを藤村さんが積極的に捉え返しているのか、それともまったく今まで誰もやっていなかったのか、僕なんかは全然わからんので。普通どんなプロセスを経て建物が建つかよくわかんないから。

建築暴走学生A
普通にやってきたことを、今のネットや建築の環境で言いなおしたってことなんじゃないでしょうか。

mg54
そうですね。今までも勿論、コミュニケーションの結果でログが溜まってきた、という状況はあったと思います。藤村さんは、そのログを積み重ねするっていうところに、可能性を見出したってことだと思うんです。今までの建築家は、結果的に積み重なってきたものや積み重ねていく方法に興味があって、積み重なってきたものが何か新しい可能性を生み出すってところにあんまり着目してなかったんじゃないでしょうか。

マイケル
残したログを、管理する情報コストが安くなったことも影響してるだろうね。アクセスもしやすくなったし。ようやく前からやっていたことを、結構幅広い層を対象に、具体的なモデルで実現できるようになったということかな。そういう設備的なインフラが整った今だから、発想としてリアリティを持ち始めたっていう感じでしょうか。…藤村さんのやり方は論文発表後どうなんですか?大人気?

建築暴走学生A
まだ広がりを見せ始めている、っていう状況ですかね。大学の非常勤講師として、その方法を使った課題とかやっているみたいですけど。僕が一番難しいと思うのは、方法を作品化してるように受け取られてるから、その二番煎じをやりたがる人がなかなか出てこないことでしょうか。 

建築という手段


マイケル
その問題は根強いと思うわけですよ。やっぱり作家になりたいと思うんだったら、二番煎じはできない。でも、「建築家は市民の道具的存在だ」っていう風に建築家を自分の中に位置づければ、使えると思うんですよね、だから、そのどっちになりたい人が多いか?って話で。それと、僕が気になるのは、藤村さんはオープンソースとして方法論を提示しているのかもしれないのに、それを受け取る側はそこに作家性を見出そうとする。藤村印の作品、っていう風にとられてしまうと、藤村さんがどこまで考えてるかわかんないけど、それは藤村さんの方法に見出したような可能性っていうのは、結局作家主義の、現実の中で、一作家の考え方に、位置されちゃう。

建築暴走学生A
そうなっていくと、もう昔から色んな建築家の色んな試みのひとつになっちゃう。

マイケル
そうそう、それだと・・・・・・・ね。

建築暴走学生A
っていうか、自分で方法論、方法論ってずっと言ってますけど、結局そこは最終的な評価には繋がらないと思うんですよ。私はこういう方法論作りましたって言われても、そんなのその新旧以外では評価できない。いい悪いが言えない。方法論を守ったからといっていい建物ができるわけではないしね。

マイケル
そうそう。それは最初の疑問ですよね、それで作った物は果たしてどうなのかなって。皆住みたいのか、とか、住んでて気持ちいいのか、とか。建築って、実際に形を取っちゃうし、簡単に変更できない。ネットのブログぐらいだったらちょっと間違えたって訂正できるけど。

建築暴走学生A
僕の理解している範囲での批判的工学主義の可能性はさきほど話しましたが、反対に限界というか・・・藤村さんは巧妙に自分の好みみたいなものを隠してると思うんですよ。恣意性というか、動機というか、彼自身、作家になるにはトラウマが必要である、みたいな事を言ってますし、「団地的な風景しか知らない僕たち」みたいな話を、公演会とかでしてます。そういう趣味、傾向みたいな根っこのところを考えると、建築の「かたち」はなんとなく理解できる気もします。

マイケル
なるほどね、そうか。 

再々度、本題に戻って



マイケル
ついでに、最初の話に戻すけど、藤村さんの言うところの、組織派と、アトリエ派が分離してるって状況はどういう問題があるのでしょうか?つまり何ゆえ藤村さんはこういう自らスタンスを取らねばならないんでしょうか。アトリエ派と組織派の乖離、そこをつなぐ役割があるとすれば、その乖離によってどういう問題が発生しているのかってことなんですが。

mg54
うん、難しいですね。

一同
(笑)

mg54
わからないですけど、なんかちょっと白けるじゃないですか。「僕らが扱っているのは、どうせ表層なんだ」「深層には誰も注目してないだろうな」、なんて。モノを作る人が、いかに自分をモチベートしていくかって感じだと僕は思うのですが、ってそれを言ったら元も子もないな、違うか(笑)

マイケル
それは作る側の問題でしょ?受け手側としてはどういうの問題があるのかね?

建築暴走学生A
ユーザー側として、ですか?

mg54
受け手側がどうなのかって、考えたことも無かったですよ。

建築暴走学生A
受け手側の話は、むしろこっちから教育してやりたい、ていうくらいの強気な姿勢でいいんじゃないですかね。ひとつの分野は、内向化したら、しぼんでそのまま粛々とやってく方向しかなさそうですし。

マイケル
しかしね、ニコニコがやっぱり圧倒的にラディカルなのは、超受け手主義な所なんだよ。受け手が、作った人の名前も呼び名も考えて、作った人の評価も全部決め、受け手の人が思ってみないような価値評価を与えて、それで流通させるっていうシステムになってる訳ですよ。そこで生まれてるある種のクリエイティビティみたいなものに、僕はなんか凄い積極的な価値を見出してる。つまりいままでは、作家がAと思って作ったものを、Aとして受け取るっていう風なあり方をずっとやってきたわけだけど、少なくとも表現領域の中でニコニコはそれを完全に転倒させるシステムを作ったと。もちろん、いま言った話は、俺が建築の門外漢であるというだけの話なのかもしれない。でも、ある形態なり、ある表現なりを通じて、人々を啓蒙するってやりかたが、特に日本で全く通用しないって思うんだよね。300年間それをやってきてできてないんだから、できないと思うんだよ。だから、啓蒙じゃないようなやり方で、人々をある程度上手くコントロールするなり、人々の発想みたいなものを上手く取り込んだ形でモノなり表現を作っていくっていう、そういう風なシステムが多分今色んなところで求められている。藤村さんはその建築におけるモデルのように見えました。

 

「超線形プロセス」のお相手は、どなた?

マイケル
で、僕の今日の関心である藤村さんの作った建築はどうなのかっていう問いは、そういう風なモデルのなかの問いなんです。歌詞を書き換えるとか、表現くらいじゃ人が死ぬ訳じゃないじゃん。でも建築って具体的なモノだし、生活の基盤な訳だよ。そういったものの中で、受けての欲求なり欲望と、享受する側の欲望と、国家資格を持った人が考えるべき環境と社会のバランスでもって建物を作るっていうあり方が今までずっとなされてきたわけでしょ。じゃあ、さっき大雑把にまとめたように完全にgoogle的になって、コーディネーター的に振舞うんだとすると、考えるべきバランスって何なのか。選択の結果の責任はどうとるのか。そこで引っかかるというか、思いを馳せたことがあって。藤村さんのやり方によると、そこに心地よく住んでる人にとってはよりよい住環境になる。だけど例えば、ある建築家がボーンと建築を作りましたと。あるいは組織派がボボーンと、馬鹿でかい建築を作りましたとする。それは大多数の人にとっては、予想外に居心地が悪いかもしれない。でも例えば、浮浪者の憩いの場になってたりとか、テレクラの待ち合わせ場所になったりすると、僕は面白いと思うのです。つまり建築家がAと思って作ったものが、勝手にBと捉えられてて、勝手にそこが別の意味に組み替えられてた。藤村さんはその可能性を排除しようとしているとも言えるんじゃないかと。それは最近の、例えば浮浪者排斥云々とか、あまりよろしくないような雰囲気を、感じなくも無いと言えば感じなくも無い。

tangerine
当事者は、いいんだけど。

マイケル
うん。要するに作家主義と組織派が持っていた、形態からその常にはみでるような、不適合な部分っていうのは、それを不適合と考えない人たちにとっては、余剰になってるわけで。そういうものを生み出しているから、バランスが保てたようなところがあるかもしれない訳だよね、特に建築なんかは。そういう風にある種のイレギュラー感がどんどんどんどん無くなっていくっていうのは、今の日本が特に求めている方向性ではあるんだけど、まあそのイレギュラー感が無くなる様な方向性に関しては、ある種の危機感というか、懸念を感じなくも無い。

mg54
うーん…だから、僕がシンパシーを感じるのは、どっちかっていうと平田さんのやり方なんですよ。要は、何かもう作り手の原理として、作ったほうがいいんじゃないかと。確かにコミュニケーションによって、色んな主体の人の意見なりそういうのを、色々取り入れながら作っていくのがいいという考えは勿論僕もあるんですけど、建築は、最終的に形を出さざるを得ないんです。のであれば、強い形を示してそれに対してどう使いこなしていくか、みたいなことを考えていくっていうことをやったほうが、色んな可能性がある気がして。でも、それは実証されてないし、自分でも何ができるかちょっとわかんないんですけど。

マイケル
そうなんだよね。だから、藤村さんの提案には、プロセスを通して住環境に自発的に関わっていくっていう回路の可能性があるものの、その議論に関わっていく人はそもそも誰かっていう問題もあるんだよね。議論の参加者が特定の人を排除するように作ることも可能なわけで。誰かが勝手にドコンと作った建築であれば、色んな人がそれぞれに不平不満を抱えながらも共存するって事ができてたかもしれないっていう状況が、ある人にとっては不満がないけど、ある人にとってはもう住むこともできない、という風な状況になる可能性は当然ある。

tangerine
そうですよね。ビルディングKは住宅だったから、あのプロセスだったんだろうけど、大きな商業施設とか、駅前の施設とかではクライアントとの対話だけで作るべきなんでしょうか。

mg54
いや、もちろん、超線形は、クライアントだけではなくての設備の人とか構造の人とか、あるいはその経済的な知識を持った人とかとのコミュニケーションもあるわけですし。

tangerine
 
ああ、そうか。・・・でもやっぱり、浮浪者とはコミュニケーションが交わされないでしょう。アーキテクチャーを規定する。対話者は誰なのか、あるいはその対話者の想定しているプレイヤーが誰なのか、ということで問題が生まれるかもしれませんね。
(おわり)

 

 

ドネルモ的推薦図書

最後の話題は、補注の必要な単語はありません。お気楽にお読みくださいませ。
なお、part1、part2を読んで、この段組みに慣れてしまった方々が心寂しくならないよう、ドネルモ的推薦図書を掲載いたしております。
こちらもあわせてご覧くださいませ。

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10/07/27 23:01 | コメント(1) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

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コメント(1)

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