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ドネルモ.func(3)「ライトノベルが接続する現代詩」 |
撮影・構成:森元里奈
ドネルモ.funcでは、毎回ゲストに様々な専門家の方をお招きし、その専門領域の知識を背景とした上で別のジャンルを語っていただいています。そのお話とお客さまとの議論を通じて、人文学的な知の面白さや豊かさに触れる場を提案し、そこから、特に福岡で、人文学系のネットワークを編み上げていくことをねらいとしています。

3回目となるドネルモ.func、今回は、現代詩人の渡辺玄英さん(前回の事務所訪問の記事→冷泉荘ピクニック『渡辺玄英事務所』)をお迎えし、「ライトノベルが接続する現代詩」というテーマでお話しいただきました!
ライトノベルとは、日本のサブカルチャーの中で生まれた小説のカテゴリーのひとつ。明確な定義はなく、発行しているレーベル(角川スニーカー文庫、電撃文庫etc)やマンガ・アニメ調の表紙イラストなどによって「ライトノベル」であることが判断されます。
机の上に広がるライトノベル本たち。今回取り扱われる作品はもちろんのこと、他にも気になるものが……。
さっそくスタート。まずは玄英さんが初めて出会ったライトノベル作品、上遠野浩平著『ブギーポップは笑わない』(1998)の紹介です。この『ブギーポップは笑わない』は、"世界の敵"と戦うために一人の少女の中から浮かび上がってくる、<ブギーポップ>と名乗る人格と、様々な夢や、希望や、悩みなど様々な思いを持った少年少女達の物語で、シリーズ累計発行部数が400万部を突破し、ライトノベル界に多大な影響を与えた作品です。この作品の特徴は、中心となる一つの事件が、それぞれの登場人物の視点から、時系列もバラバラに描かれていて、全ての物語が重なった時にその全体像が浮かび上がってくるという構成になっているところです。そのため、ほとんどの作品で、各登場人物は事件の全貌を知ることなく、物語は終わります。
つづいて、玄英さんは、ライトノベルの一般的な構造として、二つの点を強調します。まず一つは、ライトノベルの主人公は、誰しもが抱いている共通の望み(認められたい、強くなりたい、仲間がほしい、モテたい、etc)を叶えてくれる存在であること。だからこそ、そのストーリーはハッピーエンドが基本となります。そして、主人公はしばしば「隠された能力」を持っていて、それが覚醒することで「やればできる子」として認められるのだ、といいます。
またもう一つは、『ブギーポップは笑わない』がそうであったように、世界の全体像が決して描かれず、あくまで「世界は未知」であるということです。この点に関して、玄英さんは、現代社会において「大きな物語が失効した」ことが関係していると指摘します。玄英さんがいう「大きな物語」とは、誰もが共有している(と思われる)規範意識や伝統、宗教、もっと簡単にいえば、きちんとした大人や家庭、人生設計のモデルのことです。こうした「大きな物語」は、ある時期までは説得力があるものとして機能していましたが、現代においては、無数の「小さな物語」が生み出され、どれを選ぶは自己決定に委ねられています。私たちはそうような社会に生きており、ライトノベルもそうした時代の状況が敏感に反映されているのだと玄英さんは言います。
そしていよいよ、今野緒雪の青春学園小説『マリアさまがみてる』(以下『マリみて』)の内容に話題は移ります。さすが玄英さんご自身大好きな作品とあって、熱く語ってくださいました。
玄英さんは特に、『マリみて』の舞台であるリリアン女学園高等部内における「スール」という慣習に注目したそうです。「スール」とは、一組の上級生(指導者役)と下級生とが、特別に親しい関係の「姉妹」になる約束をすることです。上級生が下級生にロザリオを授けるという儀式を経ることでその関係は成立します。……なんだか、何かに似ていませんか?
そう、これは日本の「任侠」「極道」の世界の感覚に通じています(!)。彼女たちはミッションスクールの生徒であるはずなのに、なんとそこには日本独自の疑似血縁幻想が現れているのです。
そのほか本田誠『空色パンデミック』にリアリティの変容を、本田透『イマジン秘蹟(サクラメント)』にジェンダーの現在を見出すなど興味深い指摘が続々となされました。
休憩を挟み、後半は詩と文学のお話。谷川雁「毛沢東」、渡辺玄英「コンビニ少女」の二編を、時代背景を踏まえながら解説していただきました。
日本を代表する詩人・谷川雁の代表作「毛沢東」は、中国の革命家・毛沢東に対するロマンチックな称賛が、ゆるぎない言葉で紡がれています。これが書かれた当時、日本は政治的な時代にあり、まだ「詩や文学が社会を扇動する」と考えられていました。つまり、「革命」という「大きな物語」が失効する以前の作品なのです。現在の私たちにはリアルな「革命」などうまくイメージできません。素晴らしい詩であるのは確かでも、現代の感覚には合っていないといえます。
それに対して玄英さんの作品「コンビニ少女」には現在に生きる私たちのリアリティが反映され、主人公は「こわれているわたし」「分裂したわたし」として描かれています。「コンビニ」という現代社会のモチーフを使うなど、今の雰囲気が明確に現れています。
この対照を玄英さんは【垂直なコトバ】と【水平なコトバ】という表現で説明します。
【垂直なコトバ】は観念性が強い、既存の文学の言葉のこと。今回の例では「毛沢東」です。いわば「世界に垂直に爪を立てようとする」イメージだと玄英さんは言います。思想が凝縮された、重みのある書き言葉のようなものだと私は解釈しました。
対する【水平なコトバ】は観念性が弱い、ライトノベルの言葉のこと。世界を「水平に滑っていく、拡散する」イメージだそうです。(そういえば「コンビニ少女」にも、「けして ふかまらないからね」という一節がありました。)特定の価値観を強調しない、軽い話し言葉のようなものでしょうか。この対立には既存の「文学」の言葉を相対化できる可能性が見いだせるのではないか、と玄英さんは語ってくださいました。
最後に会場からの質問タイム。現代詩が読めるようになるにはどうすればいいか? という質問には、「言葉のベクトルを感じることが大切」とのお答えが。ひとつひとつの言葉にも強弱や、ポジティブ/ネガティブといった方向性があることを意識することが読み解きにつながるんですね。
「ライトノベルが接続する現代詩」というタイトルではじまったドネルモ.func(3)。
現代詩=自由詩は、「自由」といいながらもいわゆる「文学(~かくあるべし)」の枠から逃れられずにいます。そこで「時代や社会にコントロールされてるかも?」と気づく、相対化できるきっかけが、新しい言葉=ライトノベルに秘められているのかもしれません。
とても興味深いお話をしていただいた渡辺玄英さん、本当にありがとうございました!
詳しくは後日音声配信を予定しております。お楽しみにお待ちください。
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