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BOOKSTEADY Lesson.1 7/13「ドゥルーズレッスン 差異と反復、リトルネロの論理について」PART.1


構成:佐々木まどか/森元里奈
構成責任:宮田智史

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BOOKSTEADY
は、講師を囲んで、哲学・芸術・デザイン・サブカルチャーなどの理論や実践について話す、少人数のレクチャー・シリーズです。

現代の最先端で繰り広げられる思考のありかたを独自の視点でフレーミングし、世界と自分をまったく新しい視点から見る方法をレッスンします。

今回は、レクチャーの内容(PART.1)を詳細にお届けいたします。後半のPART.2の模様はこちらをご覧下さい

 

宮田
記念すべき第1回目のBOOKSTEADYは「ドゥルーズレッスン」と題しまして、20世紀フランスの哲学者ジル・ドゥルーズの思想を、九州大学芸術工学研究院准教授の古賀徹さんにレクチャーして頂きます。それではよろしくお願いします。

古賀
ご紹介にあずかりました古賀と申します。現在、九州大学でアートとデザインに関係する哲学を教えています。どうぞよろしくお願いします。

ドゥルーズは20世紀を代表するフランスの哲学者です。今回の講義では、ガタリ(*1)との共著『ミル・プラトー』(1980)の中の「リトルネロ」という章を扱います。それゆえに正確にはドゥルーズとガタリの思想なのですが、以下何度も繰り返しになりますので、たんにドゥルーズと略させていただきます。

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「リトルネロ」の章は『ミル・プラトー』の白眉といえます。ドゥルーズ自身もそう認めていますし、実際読んでみても、この章の最初の数ページに相当な内容が凝縮されているのがわかります。ここの論理構造をしっかりと掴めば、思想の核心を理解できるのです。それでは早速、具体的な中身の話を始めましょう。

 

閉じられた関係性とは

古賀
そもそもドゥルーズが、いかなる問題意識を持ち、何を目指していたのかをはじめにお話したいと思います。彼の問題意識は、閉じられているように見える関係性をいかにして崩していくのか、というものであると思われます。

そのような関係性のうち、もっとも代表的な例が、いわゆるピラミッド型の組織です。一番トップに社長、その下に重役、さらに下に部長、課長、係長、平の社員がいるといった具合に会社組織の指揮系統が構築されているというものです。このピラミッド型の組織図を逆さにしてみると、あたかも、一本の樹木が枝分かれしているように見えます。だからこうした組織構造を「ツリー」と呼びます。この「ツリー」においては、外部の多様な要素に対応するために、一本の幹から互いに重複することなく組織の枝が分かれていく。こうした「ツリー」構造は、その末端において外部に開かれているが、組織としては動くことなく閉じられているのです。

 それとは別の閉じられ方もあります。たとえばソニーやグーグルといった先進的な企業では、単純な「ツリー」構造は崩されていて、社員同士の関係は複雑で、課題ごとにプロジェクト・チームを作り、その中でリーダーを決めています。固定した組織をできるだけ作らないようにするわけです。こうした組織のあり方は、単純に上から下へと指揮系統が確立しているわけではなく、それぞれのプロジェクトが個々に分かれていて、しかも場合によっては重なり合っていて、その中で利益の上がるプロジェクトを成功させたチームやそのリーダーが高く評価されるわけです。

こうした先進的な企業が主導するプロジェクト単位の組織は、一見すると開かれた、オープンで自由な関係のように見えるかもしれません。しかし、ドゥルーズは、こういったプロジェクト型も実は閉じられていると別の本で批判しています。つまり、こうした組織においても、プロジェクトのメンバーは、自分のやりたいこと、あるいはこうするべきだと思っていることを、コストや納期、顧客の意向といった要因によって制約されてしまうからです。つまり組織のいわば自由に発揮される創造性なるものは、利潤の最大化という枠のうちに閉じ込められているわけです。自分を監督する上司はいないとしても、より大きな枠組みの中に制約されている。賃金と引き替えの労働である以上、仕方がないのですけれど。

 

家族もまた閉じられている

古賀
また、会社組織とは違って、プライベートな領域においても、<閉じられた関係性>は存在しています。その代表格が家族です。もちろん、家族は利益を目的にしていません。だが家族は、利益ではなく、性を中軸とした組織として閉じられているのです。家族において、多くの場合、一組の男女の間に排他的な関係が結ばれます。ここでいう排他的とは、要するに浮気をしてはいけません、貴方は私のものです、というような制約関係を指しています。そのような契約を結んで、夫婦になった男女は子供を作ります。フロイト(*2)によれば男の子は、母親の中から強制的に産まれてくるために、もう一回母親とつながりたい、元に戻りたい、そういう欲求を持っているといいます。そこで男の子は母親ともう一度、特別な関係を結ぶことを欲望する。

しかし、そうした欲求に対して、父親が社会を代表して「駄目だよ」というかたちで介入してくるわけです。母親との蜜月関係が父親によって禁止されるので、仕方なく、思春期を過ぎて性的に発育していくと、男の子は他の女性と結婚し、同様に排他的な関係を結ぶ。お母さんとの関係が否定されるがゆえに、はじめてその男の子は他の女性と結びつくのです。そういう意味で社会に開かれるのですが、しかしこれは永遠に続く。こういう形で家族・・・を永遠に形成していく。一見家族は開かれているように見えるのですが、構造的に閉じられている。

そうしたかたちで、常に組織というのは、開かれながらも閉じられる関係性だといえます。では、そうした関係性はなにゆえに結局は閉じられてしまうのだろうか、このことをドゥルーズは問題にしたわけです。そして、組織や人間関係といった<関係>がどのようにできあがっていくのかをより精細に見ていけば、実はそうした既存の関係性を、もっと違ったしかたで見ることができるのではないか、それはより開かれた関係性の理解と構築につながるのではないか、そのようにドゥルーズは考えたと、私は思います。

ガタリ(*1)

ピエール=フェリックス・ガタリ(Pierre-Félix Guattari)1930年生まれ。フランスの思想家・精神分析学者。1968年五月革命以降、ジル・ドゥルーズに出会う。ドゥルーズとの共著に『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』、『カフカ』、『哲学とは何か』がある。政治犯救済運動を推進する一方で、ラ・ボルド精神病院に勤務し、精神医学改革の運動を起こしてきた。現代でも、情報論のピエール・レヴィらに大きな影響を与え続けている。

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フロイト(*2)

ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)1856年生まれ。オーストリアの精神分析学者。オーストリアの白人系ユダヤ教徒アシュケナジーの家庭に生まれる。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開した。フロイトの提唱した数々の理論は、のちに彼の弟子たちによって後世の精神医学や臨床心理学などの基礎となったのみならず、20世以降の文学・芸術・人間理解に広く甚大な影響を与えた。

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リトルネロ、差異と反復

古賀
それでは、今日の本題である「リトルネロ」の話に入りたいと思います。そもそも、「リトルネロ」というのは、リフレイン、つまり曲のはじまりや終わりで何度も繰り返される印象的な旋律のことです。ちょっと前に松任谷由美の『リフレインが叫んでる』という曲がありましたが…あれ、みなさんご存知ないですか(笑)。

まあ、その話はいいとして、ドゥルーズは、「リトルネロ」の冒頭でこんな話をしています。幼子がひとり、暗くて怖い森を歩いている。そこで子供は歌を口ずさむ。小声で何度も同じフレーズを反復する。小さな自分のうちに森の夜が浸透してきて、自分が圧倒されそうなときに、自分の領域を無力ながらもなんとか保とうとする最初の行為、これがリトルネロだと言うわけです。つまり、一定の秩序を持った歌をまわりに鳴り響かせ、しかもそれを反復して持続させる、これが秩序の原初的な形態なのです。真っ暗でどこにも差異が見いだせないような夜のうちに、こうしてささやかな中心が定まる。「小声で歌を歌えば安心だ」というわけです。

次の段階です。その子が、自分のおうちに帰り着き、自分のテリトリー(領土)を確立して、その中で、さらに自分の領域を強化し、集中する。そんなときにもリトルネロを口ずさむ。学校の宿題をこなすとき、力を集中するために小声で歌うといったイメージです。リズムをとって、ドリルをガンガン片付けていく、そういう感じです。ところがその次の局面で、その子はドリルに飽きてしまう。その子はささやかな歌に身を任せて、家の外にもう一度出て行くわけです。

ドゥルーズはリトルネロについてこのような三つの局面を描くことで、リフレイン自体のうちに、領域を形成するだけではなく、そこから外に出て行こうとする要素が含まれていることを示そうとしているのだと思います。リフレインはフレーズを反復するのだけど、それは反復であると同時に、違ったものをそこの中に折り込んでいくことであり、反復を通じて自ら違ったものに変化していくことだ、とドゥルーズは考えているわけです。

反復は機械的なものであり同一性の単純な繰り返しだ、日常の繰り返しというのは閉じられていると考えるのが一般的です。でも、反復の中に差異が常に入り込んでいて、反復の継続によって差異が現実化し、違ったあり方へと開かれていく。そういう論理をここでドゥルーズは展開するわけです。閉じられていると思われる関係性は、じつは開かれている。つまり、ひとつの領域を作っていくことが、同時にその領域を崩していくことにつながる。「リトルネロ」はそうしたお話なのです。

 

原初的な建築

古賀

<暗い森の中で子供が歌う>という最初の場面を思い出して下さい。そこで歌っているときの子供はどんなことを考えていると思いますか?不安で胸が一杯で自分の家のことを考えているはずです。この局面で歌は、自分が今から帰ろうとしている家の暖かい雰囲気を先取りしています。そうすると、「リトルネロ」は自分の家、つまり生まれ故郷のようなものに帰る要素を持っている。つまり何かを繰り返し口ずさむということが、自分の安住の端緒を模索しようとする最初のあり方なのだとドゥルーズは言っているわけです。つまり「リトルネロ」というのは、根源的な家の建築の比喩なのですね。

リフレインというのは、ささやかな「ノモス」を形成する行為です。ノモスとは、ギリシャ語で秩序を意味します。ドゥルーズはこの言葉によって、しっかりとは固められていない秩序や組織のありかたを表現しようとしています。まずは、歌を口ずさんでささやかな秩序が形成されるノモス形成の段階がある。次に実際に建築家の人を呼び、設計図を描いて、しっかりした建築物を作っていく段階に移行するわけです。とはいえ建築家やデザイナーは、必ずこのノモスの要素を持っているのですね。図面を描くに先だって、与えられた状況のうちにある種の空間秩序を模索することができなければ、そのあとにしっかりした空間を構築することはできませんよね。

 

環境とコード

古賀

ノモスが形成されれば、その内部に一つの「環境」が生まれるとドゥルーズは言います。しかもドゥルーズは、この環境にはかならず何らかの「コード」が対応しているというのです。環境は三次元的な広がりを持っていますが、「コード」とは一次元的な線(ライン)のようなものであり、環境の中には直接現れてこないものです。そのかぎりで暗号化された規則と言っていいかもしれません。

規則が暗号化されているというのは、どういうことでしょうか。私なりに人間の身体を例にして説明してみましょう。身体はひとつの環境です。そしてそれを構成する血液もまた、身体を構成する一つの部分環境です。環境がその内部にさらに環境を持っている。血液には様々なコードがあると考えられます。そのなかでも一番重要なのは赤血球が酸化・還元されるというコードでしょう。人間が活動すると、酸化されている赤血球が酸素を使い、還元されます。それをもう一度酸化しないと人間はすぐに窒息して死んでしまいます。これは厳格な規則です。つまり酸化・還元というコードによって、血液というひとつの環境が成立しているのです。こうしたコードは実際に採血してそれを目で見ても判らない。それは環境の背後に隠されている。

それから「血液」という環境に接するかたちで、「外気(空気)」という環境がある。血液環境は外気なしには成立しえない。なぜなら血液は外気から酸素を取り入れないと自らのコードを破綻させてしまうからです。外気という環境にも、もちろんコードがあります。それは酸化能力、つまり酸素濃度を一定に保つというものです。増加した二酸化炭素を植物が固定して酸素濃度を保つエコシステムによりそれは実現される。これも空気の現物を見ても分からない隠されたコードなのです。血液と外気というこの二つの環境が、肺という身体器官をつうじて接しているわけですね。

 

リズムの誕生

古賀
二つの環境が接するときに「リズム」が生まれるとドゥルーズは言います。この例で言えばそれは呼吸です。逆に考えてみると、何らかのリズムが成立しているところでは、必ず二つ以上の環境(コード)がその背後に存在していることになる。ここがポイントです。普通はリズムといえば、メトロノームみたいなものをイメージしがちです。一分間という時間の中で、それを等間隔に区切って、カチカチカチカチとリズムを刻む。しかしこのリズムの背後には複数の環境が存在しない。それはたんに無内容な空間=時間を分割しているだけです。これをドゥルーズは「拍子」と呼んでいます。先ほどの樹状(ツリー)組織においては業務内容が分割されていました。全体のお仕事があって、それを課や係で分割しているだけです。空間なり機能なりを機械的に分割する。これが拍子的な分割です。

ドゥルーズによれば、こうした拍子からリズムは完全に区別されます。ドゥルーズは「リズム」をクリティックだといいます。この言葉は危機的とか臨界的という意味を持っています。「リトルネロ」の導入部を思い出してみましょう。暗がりを歩いている子供が歌を歌う。その背後には子供の生体環境と森という外部環境があり、両者の接点でリズムが生まれている。子供は暗い森に脅かされている。しかし同時に、子供もまた森を脅しているのです。二つの環境が出会うとき、それぞれは自分とは異質なものと向き合っている。両者共々、カオス、無秩序の危険にさらされる。ここで二つの環境がそれぞれ危機に陥りながら、それでもなお、他の状態へと互いに橋を架け、カオスに陥らずにノモスを形成するときにリズムが生まれるのです。互いに異質な時空があって、相互に移行しあう。その臨界点にリズムが生まれる。そうすることで複数の環境が共存して、カオス化の脅威に対抗するわけです。

 

危機的=批評的であること

古賀

そしてクリティックというフランス語にはもう一つの意味がある。それは批評的ということです。批評的というありかたは、自分を脅かしてくるものと単純に敵対するのではなく、その敵対関係それ自体を別な観点からもう一度捉えなおすことを意味します。そのためには、一度自分の立場から抜け出して、相手の立場にも立ってみる必要がある。相互に批評的であるときには、お互いに自分のあり方から抜け出して相手の立場に立つ。そしてその上で、その相手の立場から今度は自分の立場を見返し、自分のあり方を再考する。その相互が拮抗して、ひとつの共存の「かたち」をつくりあげる。そこから「リズム」が生まれてくるわけです。危機的であるからといって、他者を排除したり絶滅するのではなく、それと共存する。それゆえに互いに批評的にならざるをえない。そうすることで、他者との架け橋、つまりリズムがその臨界において形成されるのです。

 一つ一つの環境は周期的な反復によって成り立っています。この反復は全く同一の反復ではなく、必ず差異を生み出すとドゥルーズは言います。たとえば血液は体内で酸化・還元を繰り返します。しかし同時にその反復は外気と連動し、呼吸のリズムを形成している。つまり血液環境の内部で生じている反復は、外気の反復と連動するというかたちで、外部に開かれている。反復は自己の反復であるにとどまらず、リズムという形で、別の環境へと開かれていく。同じことの繰り返しが他所への移行をすでに含んでいるのです。閉じられているものはじつは開かれている。だからこの種の反復は生産的な反復です。

これに対して、拍子は何物も生み出さない反復、つまり単純な再生産に専念している。再生産とは、永久に閉じられたかたちで単調に拍子を刻んでいくことを指しています。どこにも行けない。差異化の要素を抑圧している。これに対してリズムは、自分を何か別の環境に開いていくことであり、そのために自分をつねに危機的=批評的な状況に置いていくことでもあるのです。

 

コード変換と対位法

古賀
ここでドゥルーズの「コード変換」という概念を説明します。「コード変換」とは、これまでお話ししたとおり、一方の環境が他方の環境を必要するということ、もしくは、あるひとつの環境からリズムを刻むかたちで外に開かれていくということです。ドゥルーズが挙げている雀蜂の例を取り上げてみましょう。雀蜂はそのDNAを自らのコードにしていると考えましょう。つまりDNAは雀蜂の行動を規制している目に見えない規則なのです。

ここに蘭の花が咲いています。もちろん、この蘭の花もDNAを持っています。DNAの中には本能的な行動を司る様々なコードが書き込まれているとしてみましょう。雀蜂のDNAには花の蜜のような何かを食べるというコードが書かれているはずです。同様に花のDNAには、虫によって受粉することを前提に生殖するというコードが書かれているはずです。そうすると、花の生殖のコードは蜂の「花の蜜を食べる」というコードを自分自身の中に取り込んではじめて完成することになる。同様に蜂の捕食のコードは花の「受粉して生殖する」というコードと合体してはじめて成就することになる。花の上を舞う蜂の行動においては、花のDNAのコードのなかに蜂のDNAのコードが取り込まれており、また逆もそうなのです。こうしたしかたで蜂のコードと花のコードは相互を取り込み合っている。コードがそうなることで、花と蜂という二つの身体環境は、共振、つまりダンスしている。花は美しく咲き誇りその色香により蜂を引き寄せ、蜂はぶんぶん勢いよく飛ぶことで花を喜ばせる。このように二つの環境が生き生きと共生し、そこにリズムが生まれる時、新しい共有コードが生まれる。それが「コード変換」なのです。

そのときには必ず剰余価値、つまり蜂だけでも、花だけでも達成できなかったプラスの価値が生まれています。蜂は蜂だけの価値、花は花だけの価値を持っているのだけど、ふたつの環境が相互に移行しあうときに、両方がもっていなかった新しい価値が生まれるわけです。それは美しい花の周りに蜂が飛び回ることにより実現される新たな、輻輳するリズムの価値です。ここで、花のリズムは花の形象と色彩、蜂のリズムは蜂の飛行と仮定しておきます。このふたつのリズム、旋律と比喩的に言ってもいいのですが、この二つの旋律が組み合わさって対位法を形成するとドゥルーズは言うわけです。それぞれのリズムがその独立した存在を保ったままいわば響き合うことによって、プラスの剰余価値を生み出すわけですね。

 

『リフレインが叫んでる』/松任谷由実(*3)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

会場の模様

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領土と領土化

古賀
それでは「領土化」の話に移ります。「領土」はフランス語でテロワール、英語でいうとテリトリーです。領土は常になんらかの「表現」と対応しているとドゥルーズは言います。それではここでいう表現とは何を意味しているのでしょうか。それはさしあたり領土において刻まれているリズムだと考えることができるでしょう。しかしリズムだけでは十分ではありません。表現とは、他者に向かってそのリズムを示すこと、そうすることで自らの縄張りを主張することを指しています。私と領土の間に成立しているリズムを第三者に示し、これが私の領土だと他者に対して宣言する、それが表現なのです。

つまり、リズムが表現性を持つようになったとき、つまり他者に対してそれを宣言する、という状況になったときに、そこに領土が生まれてくるのです。ある種の猿は見張り番をする時に、他の猿に向かって色鮮やかな性器を露出するという例をドゥルーズは挙げています。性器が表現力やリズムを持つ色彩の担い手となっているわけです。そうすることで、ここは自分の領土だと「立て札」を侵入者に対して示す。そうすることで領土の境界が示されるのです。これが領土化です。従って環境と領土は異なった概念です。環境がそのコードによって規定される機能的なものであるのに対して、領土は他者を前提とした表現によって成立するものであり、その意味ではじめから政治的なものだといえるでしょう。

さらにドゥルーズはこうも言っています。動物をよく観察してみると、色鮮やかな色を持つ動物たちは個体として自分のテリトリー(縄張り)を持つが、白くて、あまり目立たない色の動物は群れを成す習性があるというのです。この例が動物学的に正しいかどうかはさておいて、ここで重要なのは、まずもって何らかの機能が成立し、そのあとでそれをまとめて領土が作られるのではなく、領土を形成する表現行為が先行し、そのあとで様々な機能がそのなかで分化するということです。だから表現力が弱い動物は個体としてのテリトリーをもたない。

たとえばロビンソン・クルーソー(*4)のように、私が孤島に住み着くことを考えてみましょう。この場所はトイレにしよう、ここで煮炊きをしよう、ここで魚を釣ろう、と生きていくための場所をなんとなく作っていくような場面を考えて下さい。しかしそうした場所が個々バラバラに偶然的に成立するのではなく、それが私の生活の場所であるといえるためには、前もってそれらの場所を自分の場所として囲い込んで、来るべき訪問者に対して宣言しておかなければならない。つまり最初にその宣言があって、そうしてはじめて自分の家(領土)が成立し、そのあとで機能が分化して、トイレ、浴場、台所といった場所が生まれていく、と考えるのです。

 

表現と機能

古賀
ここまで「リトルネロ」論を読んでくれば、ドゥルーズの思想の核心的な部分をある程度つかんだことになります。つまりそれは、表現と機能との関係です。従来の生物学の主流は、生物の生体機能はそれ自体として独立に存在しており、そうした生体機能がたまたま生殖や縄張りなどのために何らかの表現のようなものを果たすと考えてきました。

つまり、機能がなければ表現はあり得ない、と。機能を満たすために、それを目的として、表現がなされると。この図式では、生命の欲求や意志があってはじめて表現が成立する。しかしドゥルーズは、生体機能のもっとも基本的な水準に表現、そしてリズムを位置づけようとします。表現する意志より遙か以前にすでにこの世界はリズムに充ち満ちているというのです。生体は無数の内部環境を統合する形で成り立っています。その環境の連動そのものが、無数のリズム=ノイズによって成立しているというのです。つまりリズムがなければ環境(身体)が存在せず、それゆえそもそも機能なるものも成立しない。そしてそのリズムが他者に対して主張される表現になるとき、私の身体というひとつのさしあたりの領土が成立する。

 

音楽とその外部

古賀
みなさんは音楽を聴くとき、どのような感じがしますか?なんとなくひとりで狭い部屋の中に閉じ込められて所在なげな気持ちのときに、何かを求めてラジオやオーディオのスイッチを入れたりしませんか。音楽をかけると、自分がそこにいながらも、外に開かれるような気がして、なにか別の自分になれるような気がしないでしょうか。その音楽のリズムは、何と連動しているのでしょう。それはおそらく、自分の生体が刻んでいる無数のリズムと呼応しているのかもしれません。そうした様々な無数の、かすかなノイズを統合する形で、「自分の身体」というリズムが成立し、そうすることで、身体が一つの領土として成り立っている。つまり身体の内部にある微細なリズムが全体として調和している状態こそ、「私の身体」を成立させていると言うことができるでしょう。そうした調和が音楽のリズムとともに外部へと開かれ、いまの自分からどこかに移行していくような感じがする。でもその先がどういう領域なのかは、はっきりとは解らない。そういう宙づりの感覚に音楽は自分をおいてくれるのでしょう。

 

ドゥルーズ的なデザインとは?

古賀
そしてこのように考えると、デザインを単に生体機能の延長として考えることができないことがわかります。たとえば自動車は人間の足の機能を延長したものではない。それはむしろ、生体環境と外部環境を接続するインターフェイス、一つの新たな環境だと考えるべきなのです。そこで重要なのは単に速く走ることではなく、外部環境との臨界点を形成することであり、両者のあいだに表現の層を構成することなのです。リズミカルなインターフェイスとしての自動車、行き先はわからないけれど、どこかに開かれている感じのツール、これこそが自動車のあるべきデザインだと、ドゥルーズ的には言うことができるでしょう。

 

アートとは何か

古賀
領土化の宣言、これは表現です。この表現のことを、ドゥルーズは「アート」と呼びます。通常の考え方では、アートは人間、その中でも特に才能のある人が手がけるものと考えられてきました。ドゥルーズはそうした人間中心主義的な考え方を退けます。アートは人間の表現意志に先立って、自然の中にひしめいていると言うのです。動物や昆虫や植物などが自分のテリトリーを主張する時に、他者に対して表現する。そうした行為がアートだと言うわけです。「芸術とは何よりもまずポスター(立て札)だ」というドゥルーズの言葉は有名です。ドゥルーズは、熱帯魚は珊瑚礁のポスターだと言います。熱帯魚はなぜあれほど色鮮やかなのだろうか。それはあるひとつの環境、つまり珊瑚礁が、熱帯魚を自分のテリトリーの表現=ポスターにしているからです。

珊瑚礁はおのれの領土を他の生物に対して示すために熱帯魚をその表現にする。熱帯魚の方は自らの色彩の表現力を珊瑚礁に使わせて、そこを同時に自分の居場所=領土にする。こういうしかたで共生しているわけです。本当にそうなのかは別にして、熱帯魚と珊瑚礁の関係をそのように見るわけです。こうした見方は生物の共生について新しい考え方を示しています。伝統的に共生は生物が自らの生存を確保するためにどうしても他の生物を必要とするというかたちで、つまり生命の機能の水準でのみ理解されてきたわけです。しかしドゥルーズは、そこに表現を導入した。

 

美は生命にとって本質的

古賀
ここからは私の考えになるのですが、先ほどの蜂と花の例にもこのことが当てはまると考えられます。つまり蜂と花の関係は互いの生存を可能にするためだけではなく、蜂のダンスは蜂の表現となると同時に、ダンスする蜂が今度は花の表現=ポスターとなり、それと同時に花が蜂の居場所=テリトリーになるという関係として考えることも可能なのです。もしくは逆に、花の色香は花の表現であると同時に、色香を振りまく花は蜂のポスターとなり、蜂をその居場所とするということも言えるかもしれません。両者は生存するためではなく、領土を保全する政治のために、共生していると言えるでしょう。

こうした理論は、自然のなかになぜ美が溢れているか、なぜリズムがひしめいているかを説明しうるものです。伝統的な生物学の理論では、生命の自己保存や生殖の機能についてはうまく説明できたとしても、それと美がいかに関係するかについては、あまり問題とされてこなかったのです。そこでは生命機能に対してその表現は、付随的というか、本質的な関係を持たないとされてきた。しかしドゥルーズは、まさに表現があって初めて領土が宣言され、そこに事後的に機能が根付くと言う。そしてそのかぎりで、美こそがまさに機能に先行すること、美は機能にとって本質的であることが主張されているわけです。これを、機能に対する政治の先行性と呼んでもよいと思います。

 

レディ・メイドのアートたち

古賀
こうしたテリトリーの宣言をドゥルーズはまた「署名」とも呼びます。マルセル=デュシャン(*6)というアーティストがいます。彼は工業製品の便器に「泉」という名前をつけ、そこに自分の名前を署名し、芸術作品として発表しました。これをレディ・メイド芸術といいますが、このレディ・メイド芸術は、作者が作品を作るという伝統的なアートの構図を否定しています。すでにそこにあるものをあとから私の作品だと主張するのです。作品が完成してそこに最後にアーティストが署名するのではなく、まず署名からすべてが始まる。先ほどの例でいえば、まずもって生命の諸機能があってそれをあとから自分の身体だと宣言するわけではない。そうではなく、まず「自分の」という署名行為、政治的な表明行為があってはじめて作品や身体が存立するわけです。ドゥルーズは「領土を示す指標はレディ・メイドである」と言っています。デュシャンのダダイズムは、作者が作品を作るという従来のアートの概念を転倒させる行為だと考えられています。しかし、ドゥルーズは、こうしたモダニズムの挑戦こそ、より根源的な芸術のありかたを示すものであり、むしろ作者が作品を作るという従来の人間主義的な、もしくは作家主義的な考え方の方が、本来のアートのありかたを転倒させたのだと批判しているかのようです。ドゥルーズにとっては才能あふれる人間のアーティストではなく、自然や生命こそが、本来のアーティストなのでしょう。


機能と表現はずれていく

古賀
これまでお話ししてきたポスターは領土と一対一対応ですね。しかしポスターはひとたび成立すると、領土との対応関係がずれていく。つまり、その表現が対象としている領土とのあいだに差異を生んでいくのです。なぜならば領土は死んで固定したものではなく、生命の機能の領域であり、生きて動いているからです。

ここで私の例ですが、ファッションのことを考えてみます。たとえば幼い女の子が成長する場面を想像してみましょう。これまで女の子は、親から与えられる服によって身体を「自分の」身体として表現するほかなかった。服はお仕着せながらも身体という領土のポスターだったわけです。しかし女の子は成長して変化する。それは身体の発育だけではなく、それに対応して外部と新しい人間関係を形成し、その関係性がまた彼女の身体に変化をもたらす。そうして思春期を迎える。そうすると今までのお仕着せの服と彼女の身体との間にはある種の「ズレ」が生まれてくるでしょう。そのように領土をめぐる機能がさまざまに変動し、個体という生命の領域の内部で、次いでその外部環境との間で様々な新しい関係を結び、新しい機能性を発揮し、表現と領土の関係が変化していく。そうすると、領土に対応する表現の方も変化せざるをえなくなる。変化した機能にふさわしい新しい表現の質が必要とされる。服装は彼女の新しい身体性にふさわしく、おのずから変化する。でもそれが変化したとしても、そこにはある種の一貫性がある。彼女の身体は今までの服装のあり方を踏まえながら、新しい表現の質を獲得していくからです。

先ほどのドゥルーズの珊瑚礁の例についてさらに考えてみると、珊瑚礁のありかたをめぐって熱帯魚の色は、季節、水温によって微妙に変化するでしょう。もしくは違う魚が入れ替わって、珊瑚礁の新しいポスターになる。にもかかわらずその新しい表現が、依然としてこの珊瑚礁の表現であるためには、それが完全に別のものになってしまっては困る。変化はするけど何らかの同一性を保っている必要があるのです。

 

スタイルとモチーフ

古賀
流動しながらもある種の一貫性を備えた表現の質のありさまをドゥルーズは「スタイル」と呼びます。署名やアート、ポスターは、スタイルへと変化していく。ドゥルーズの言葉を引用しますね。「署名はスタイルに変化していく。表現する質と表現の質料は相互に流動的な関係を結び合う。そのような流動的関係は、表現の質が与える領土と、衝動が渦巻く内部環境との関係、いわゆる状況がおりなす外部環境との関係を表現していく」。

ドゥルーズは、スタイルのことを「モチーフ」と呼んだりもします。モチーフというのは、音楽用語で動機と訳されたりします。例えばベートーベンの第五交響曲には、運命が扉をたたくともいわれている有名なモチーフがありますよね。このモチーフは、曲の進行とともに展開して変化してゆきます。にもかかわらずそれは一つの動機の展開と呼ばれるわけです。

 

変化しないものも変化している

古賀
私の考えなのですが、名前の例を考えてみましょう。私の細胞は短期間で全部入れ替わります。季節がめぐって髪の毛を切ったり、洋服を変えたり、人間関係や考え方が変わったりする。就職すれば自分の行動のプログラムも変化する。だけど、私は私だと示す署名、古賀徹だという名前はそんなに変わらない。かつては長じるとともに名前が変わったり、一人前になると芸名が変わったりすることもありました。いまでも結婚すると名字が変わったり、死んだら戒名がついたりします。しかし自分の名前は普通、連続的に変化したりしません。しかし私は自分の名前が現実に変化していることを感じることができます。つまりその名前が呼ばれたり書かれたりするときの文脈が変わっているのです。そうすることで自分の名前が持つ価値やニュアンス、輝きや色彩が連続的に変化することを感じることがあるのです。だとすれば私の名前もまた、一つのスタイルだといえそうです。

 

抽象機械

古賀
以上のことをまとめてみると、領土はその内部において機能的に変化するし、それに応じて外部との関係も変化する。逆もそうです。そしてその変化に対応して、自らの表現のあり方も変わる。中も変わるし、外も変わるのです。にもかかわらず、それは一つの領土が変化したものであり、表現もまた同一の動機が展開したものと見なされるのです。つまり内実が変化しても同一のものがそこから浮き立つという意味で、そこには一つの抽象作用があると考えられるわけです。表現の同一性、記号の同一性はそうした抽象作用から成り立つといえます。ドゥルーズは表現記号を成り立たせる抽象化の作用をはたすものを抽象機械と呼んだりもします。そしてこの抽象化された機械は、一つの自立した存在を獲得し、場合によってはそれに対応する領土がもはや存在しなくなっても動き続けるのです。

ドゥルーズが挙げている例で言えば、犬は空腹でもないのに、獲物をイメージし、嗅ぎつけて追いかけて振り回して殺すという動作を繰り返す。昔の狩猟本能のモチーフが反復している。室内犬はもう狩のフィールドを失っているのだけれど、領土が失われたとしても抽象されたそのスタイルは残存している。その空虚なスタイルでもって、もはや存在しない自分のテリトリーみたいなものを一生懸命そこで主張しているのです。それで犬って、コードとか電気製品とか齧るのですね。悲しい感じです。(笑)

 

PART.1はこれで終わりです。引き続き、PART.2をお楽しみ下さい。

BOOKSTEADY Lesson.1 7/23「ドゥルーズレッスン 差異と反復、リトルネロの論理について」PART.2の模様はこちらです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロビンソン・クルーソー(*5)

イギリスの作家、ダニエル・デフォー(1660-1731年)の書いた小説、またその主人公。ロビンソンの誕生からはじまり、船乗りになり、無人島に漂着し、独力で生活を築いてゆく。この無人島には時々近隣の島の住民が上陸しており、捕虜の処刑及び食人が行なわれていた。ロビンソンはその捕虜の一人を助け出し、フライデーと名づけて従僕にする。28年間を過ごした後、帰国するまでが描かれている。

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関係著作

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マルセル=デュシャン(*6)

1897年生まれ。20世紀の美術に最も影響を与えた作家の一人と言われる。コンセプチュアル・アート、オプ・アートなど現代美術の先駆けとも見なされる作品を手がけた。「レディ・メイド」と称する既製品(または既製品に少し手を加えたもの)による作品を散発的に発表する。ほとんど「芸術家」らしい仕事をせず、チェスに没頭していた。なお、チェスはセミプロとも言うべき腕前だった。

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11/01/28 20:43 | コメント(0) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

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