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BOOKSTEADY Lesson.1 7/23「ドゥルーズレッスン 差異と反復、リトルネロの論理について」PART.2


構成:佐々木まどか/森元里奈
構成責任:宮田智史

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BOOKSTEADYは、講師を囲んで、哲学・芸術・デザイン・サブカルチャーなどの理論や実践について話す、少人数のレクチャー・シリーズです。

現代の最先端で繰り広げられる思考のありかたを独自の視点でフレーミングし、世界と自分をまったく新しい視点から見る方法をレッスンします。

今回はBOOKSTEADY Lesson.1 7/23「ドゥルーズレッスン 差異と反復、リトルネロの論理について」のレクチャーの内容(PART.1)に引き続きまして、参加者のみなさんと古賀先生との質疑応答の模様をお届けいたします!


質疑応答

宮田
どうもありがとうございました。古賀さんに聞きたいことがあればどしどしお願いします。

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スタイルをめぐって

Aさん(30代女性
ドゥルーズの「スタイル」の話を聞いていて、ちょっと分からないことがあります。ある女性がいつもと違う服を着ているとします。だけど、「あれはあれで、彼女のスタイルだよね」と解釈してしまうと、ある特定のスタイルの中に彼女を抑圧してしまうのではないでしょうか?

古賀
スタイルが表現のありかたを一定の枠組みの中に抑圧するということですか?「特定のスタイル」というように、スタイルのあり方を固定化する場合には、たしかに抑圧が生じるといえるでしょう。しかしドゥルーズはスタイルをそもそも固定的なものと捉えていないのです。

Aさん
「あれもやっぱり彼女のスタイルだよね」と言うことは、彼女の服装を一定の枠組みの中で解釈するってことですよね?

古賀
ドゥルーズは、見る側が表現を解釈するとは言っていないのです。あるものを捨てて、あるもので繋がっていく、そういう抽象と接続の繰り返しがスタイルを構成するということだと思います。自らの既存のスタイルを解釈しつつ新たなスタイルが自己生成する。

Aさん
ということは、「スタイル」には見る側の存在は関係しないということですか?

古賀
もちろん関係すると思います。見る側が不在だとそれはそもそも表現になりませんから。ただ、見る側が自由にスタイルを判断できるかというと、そうとも言い切れない。

Bさん(30代男性)
そこがすごく錯綜しているし、かつ面白いところだと思います。まず自分の領土を宣言するために表現する。それは他者に向けて行う。そうすると、表現する方は、その表現を他者がどう判断するか制御できない。そこで、自己の表現が他者に脅かされる契機が生まれてくるわけです。そのようにして自分と他者を含み込みながら、両者のあいだでスタイルがクリティカルに生成していく。

 

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人物と顔

古賀
表現は他者に対する政治行為ですから、そこには対立や緊張が生じます。だけどそうした対立も含めて、ある一定のスタイルを対立者との間に形成していくことも可能です。そのときスタイルは、私と他者の複数の領土を包括することになります。それをドゥルーズは領土の対位法と呼んでいます。二つの旋律、二つのリズムが一つの表現の対位法を形成していたように、今度は一つのスタイル(表現)の中に、二つの領土の可能性がクリティカルに交差する。そういうスタイルのあり方を「人物」や「顔」とドゥルーズは呼んでいます。この人物とは、先ほどから話題となっている、彼女のスタイルというときの<彼女>を指しているわけです。彼女は自己自身のスタイルを確立しつつ、すでに他者たちとのクリティカルな関係の中に位置づいている。それが彼女の「顔」を作っている。

このことを、たとえば<都市>を例にして考えてみましょう。都市の中には様々な「環境」がひしめいていて、相互に対立したり緊張したり共存したりしているわけです。その環境が「立て札」を立てて、他の環境に対してそれを表示するとき、そこは領土になる。領土ごとに存在するそれぞれの表現は、しかしながら、一つの都市のスタイルを形成するのです。ちょっとまえに福岡には『FUKUOKA STYLE』(*1)という雑誌がありました。福岡には様々な人々とその活動のフィールドがあって、ときには相容れなかったり、衝突したりもするのだけれど、それでもやっぱりみんな含めて福岡だよね、というように、そのプロジェクトは都市のスタイルを模索する試みだったといえるでしょう。そうしたスタイルは都市内部の関係だけではなく、他の都市との関係も包含しつつ、都市の顔を生成する。

次に<身体>を例にして考えてみましょう。一つの身体の中には様々な環境(器官)があります。それぞれがコード変換して、他の環境とリズムを取りあっている。私の身体の統一リズムの背後には、微細なリズムみたいなものがいっぱいひしめいている。東洋医学の達人たちにはそれを聞き分ける能力があるんですね。身体各部の個別のリズムたちが全体的にうまく調和しているときは、私自身調子がいい。私自身がリズミカル。個別のリズムが様々に変化しても、それらがたがいに調和しているかぎり、全体の統一的なリズム、つまりスタイルみたいなものが成立している。このスタイルの統一性は私の顔に象徴されている。顔は、身体を構成している個別の器官からある程度抽象されているので、器官の方が変容しても、それを私のスタイルのうちに引き受け包括する度量を持っている。だとすれば顔というスタイルは、私のいまの身体だけではなく、私の別の身体のありようも同時に引き受けることができるわけです。そしてその別のありようとは、他者たちの身体でもあり得るわけです。そういうスタイルとして顔は、他者たちに対して、私の身体領土を宣言する表現=ポスターなのです。

先ほどの質問にもありましたが、ある女性がこれまでのスタイルから逸脱したような服を着て突然登場する。最初、彼女スタイル変えたのかなってびっくりするわけですね。ただ、後からよくよく考えてみると、やっぱりこれが彼女のスタイルなんだと思う。最初に現れた二つの相対立する表現のあり方を包括するようなかたちで、スタイルのあり方が更新されるのです。そしてそのスタイルの変更に応じて、彼女を取り巻く人々の見方、扱いも変化する。むしろそのスタイルは、そうした変化を包括=予測するかたちで生成変化する。ファッションによる政治です。こんな格好も、あんな格好も、こういうフィールドも、ああいうフィールドも、彼女のスタイルなんだと承認を迫ってくる。魅力的ですよね。

 

 

『FUKUOKA STYLE』(*1)

福博綜合印刷=出版|1990年-2003年
福岡、九州・アジアのことを主に扱った季刊雑誌。地方都市からの情報発信として話題をよぶ。2003年、vol.30で休刊。第8回福岡市都市景観賞の特別賞を受賞.アートディレクションは中垣デザイン事務所

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新しい領土を予感する

古賀
一つの領土を成立させることは、その表現としてのスタイルの形成を通じて、別の領土の可能性へと領土を開いていくことでもある。つまり領土化は同時に、それ自体として「脱領土化」でもあるのです。ドゥルーズはこうした脱領土化を「移行」と呼んでいます。そしてこの移行が実現すると、その通路となったスタイルのあり方も変化する。つまり別の領土に対応する別のスタイルをも包括するようになって、スタイルに包容力、つまり幅が出てくるのです。スタイルそれ自体が別のスタイルの可能性をその背後に感じさせるものになる。それと同時に、まだ見ぬ、あるかもしれない領土の可能性をも予感させる。

それをドゥルーズは芸術作品の表現の構造だとみなすわけです。ある音楽を聴いたときにその音楽の風景みたいなものが眼前に浮かんでくる。その音楽は一つの顔であり、スタイルなのです。たとえば我々がメシアン(*2)の音楽を聴くとき、<メシアン>という人物の顔、そのスタイルを摑むことによって、それが指し示しているスタイルの幅、その背後に広がるフィールドを予感する。それが音楽のランドスケープなのだということもできるでしょう。

ドゥルーズの議論からもう少し話を私なりに展開してみましょう。たとえば町並みが眼前に広がっているとする。しかしそれだけでは町並みはランドスケープとは言えない。だがiPodでその町並みにあった音楽を選んで、それを聴くときには、その町並みは音楽をその表現(ポスター)とする領土となる。その音楽は、歩くにつれて町並みの見え方が連続的に変化したとしても依然としてその同じ町並みの表現であり続ける。ということは、その音楽はその町のスタイルになっていて、そのかぎりで、眼前に現に展開してきた町並み以外のものの表現にもなっている。幅を持っているわけです。ということは、音楽を聴くとき我々は、まだ見ぬ町の、つまり別の領土の可能性を眼前に見える町並みの背後に感じているということができます。そうしてはじめて、町並みは一つの風景となることができるのです。風景は、現に眼前にあるもの以外のものを同時に指し示し、自らを二重化している。こうして領土はスタイルを経由して脱領土化される。

 

 

メシアン(*2)

オリヴィエ=ウジェーヌ=プロスペール=シャルル・メシアン(Olivier-Eugène-Prosper-Charles Messiaen、1908年12月10日 - 1992年4月27日)。20世紀のフランスおよび世界を代表する作曲家。 オルガン奏者、ピアニストとしても長年演奏活動を続け、録音も数多く残している。また、本人は作曲家としての肩書きに「リズムの創作家」をも名乗っており、神学者としても稀にみる博学さを持ち合わせており、そして鳥類学者として世界中の鳥の声を採譜した貴重な偉業を成し遂げた。色彩についての言及がことさら多く、音を聴くと色彩や模様などを連想するという共感覚の持ち主であり、その詳細な記述は世界の人々を驚愕させたが、それを楽譜に書き込むことも多かった。

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アレンジメントと旅、そして機械

古賀
最後に、「アレンジメント」の話をします。アレンジメントという概念は、次回に繋がる話なんですけど、実は僕もよくわからないんです(笑)。ドゥルーズの本では一つ一つの言葉の意味が説明されないのが常です。だから自分で考えるしかない。自分なりに掴んで、皆さんの前で説明しなければならないのです。

私なりの解釈によると、アレンジメントとは旅装のことだと考えられます。遊牧民が砂漠を横断する。らくだとか食料とか武器など、一定の装具を備える。そういう装備を多分アレンジメントと呼んでいるのだと私は思います。ただしアレンジメント(旅装)のうちには地勢の把握が必ず含まれています。東京に出張するときに、飛行機に乗ると羽田空港に着く、そこからモノレールに乗って都心まで行く。これが交通的な地勢です。砂漠の遊牧民は電車で移動できないけれども、オアシスの場所、砂嵐の危険があるところなど、そういう地勢をきちんと把握してる。地勢があって旅装が組まれるのです。

先ほど述べたように、リトルネロのような単一要素の反復を通じて、森から家、そしてその外へと領土の移行が生じるのですが、この領土の移行がここでいう旅に当たります。つまり領土から領土への移行を可能にしていく装備、それをドゥルーズはアレンジメントと名付けたにちがいない。全体の地勢を的確に掴んで、装備を実装して機能させ、さまざまな領土を横断していく。装備一式からなる移行の装置をドゥルーズは機械と呼んでもいます。機械は反復的に動作し、そう動作することによって表現とスタイルを実現し、それを通じて領土を形成し、同時にその領土から抜け出して別の領土へと移行する。そしてその途上で、自らの機械のありさまを不断に組み替えていくのです。アレンジメントを変更していく。そしてそのような移行と変容においてはじめて、安定性、一定の不動性を確立する。宮崎駿監督の『ハウルの動く城』(*3)をイメージしてはいかがでしょうか。

 

 

 

『ハウルの動く城』(*3)

英題:Howl's Moving Castle。原作はダイアナ・ウィン・ジョーンズのファンタジー小説。同シリーズ第1作・『魔法使いハウルと火の悪魔』を原作として、スタジオジブリ制作で、監督は宮崎駿。2004年11月20日に日本公開された。スタジオジブリの長編映画で宮崎駿監督のものでは『魔女の宅急便』以来15年ぶりとなる宮崎自身の原作ではない作品である。物語前半は比較的原作に準じているが、後半は原作には無かった戦争が付け加えられるなど全く違った展開になっている。原作者のジョーンズはこれを了承し、かつ本作を絶賛した

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なぜ閉じてちゃダメなの?

Cさん(20代女性)
古賀さんの解釈によれば、閉じられないありかたをドゥルーズは自分のテーマとしていた。なぜそもそも閉じられてはいけないのでしょうか。なぜそこに彼はこだわったのでしょうか。

古賀
ドゥルーズが示そうとしているのは、秩序や組織が実のところどういうかたちで成り立っているのか、ということなのです。本来ならば、秩序や組織は、表現や美を媒介にして、外部と相互に移行しあい、自ら差異化していくものであり、さまざまな異他的なものを抱え込んでそれと共存するかたちで成立しているものです。ではそうした組織がどうして凝固していくのか。おそらく自分が差異化していくことが怖いのではないかと思います。表現と領土の関係は流動的なものだけど、その流動性に耐えられなくなる。
領土の変化に応じて表現が変化してスタイルという形で成熟していくのではなくて、表現を固定化することで、それに対応する領土の変化の可能性を押さえ込んでしまう。しかしどれほど強く押さえ込んでも、変化を食い止めるのは不可能なのです。にもかかわらす、そのズレをいわば無意識のうちに押さえ込む。そういう押さえ込みの反復を反復する。そうした強迫的な反復、ドゥルーズの言葉で言えば拍子的な反復のあり方を彼はとても恐れていたと思うのです。

そういうかたちで硬化した組織、集団、もしくは家族があるとしましょう。そこに自分とは相容れない別の何かがあらわれる。そうした集団は、自分を変えることを抑圧しているから、相手との間に共存の回路を開くことができない。他者とクリティカルなリズムを取ってダンスすることができない。そうすると、相手を倒すかこっちがやられるかの二者択一になってしまう。もしくは相手を全部自分のうちに、一つの固定した領土のうちにピラミッド的に全部従属させていくしかない。要するに固定した支配関係が生まれるのです。そうした硬化したあり方からドゥルーズは逃れたかった。

本当は変わっているのに変わらないと思い込む、ずっと自分は自分だ、もしくはこのグループは、この会社は、うちの家族はこうなんだ、みたいな形で押さえ込んでいく。それは自然に反したことであり、それがとてもつらい人生と世の中を作っていく。たぶんドゥルーズはそう言いたかった、と私は思います。

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そもそもなぜ閉じちゃうの?

宮田
僕も質問させて下さい。領土が固定化すると、支配的な関係が生まれる。そうした関係のあり方をドゥルーズは批判している。そこには共感します。ただ、先に紹介があったツリー型=規律型社会というものも、ある時期までは先端的なもので、それはそれで領土のスタイル化と抽象のプロセスを経て生成したもののはずです。一つの領土の形成は、同時にその領土から別の領土へと移行することでもある。その意味で領土化は同時に脱領土化だという。しかしそれならばなぜ、領土のあり方はそもそも固定化するのですか?流動性が怖くなるからという説明でいいのですか?

古賀
怖くなるという心理的な説明はよくないですね。人間が怖くなるからというより、そもそも固定化は領土とその表現にとって本質的なものなのです。領土のシステムが一回確立されると、そのシステムの表現は、領土の自己差異化、つまり別の領土への移行を全部包括できるのだという主張をするのです。そうでなければ、その表現は変動するシステムのポスターになり得ない。次の瞬間に表現が変化するとすれば、表現は領土に対する抽象性も、スタイルとしてのありかたも、達成できないのです。

夫婦喧嘩の例を考えてみましょう。夫婦は新婚のときにはおおむね幸福です。私はあなたのために、あなたは私のために、てな具合に、先の雀蜂と蘭花のように麗しきコード変換が成立し、二人の領土はリズミカルなダンスを続ける。そこから子供が生まれたりもする。ところが毎日の反復の中で領土のあり方が少しづつ変化し、それに応じてそれぞれの表現が変わり、美しきはずの対位法にいつしか不協和音が混じってくる。にもかかわらず、そうした変化の可能性を全部包括するようなかたちで私たち夫婦は成立しているのよ、それが二人のスタイルなのよ、という建前をとらざるをえない。小さな喧嘩のたびに夫婦を解消していては、それはそもそも夫婦という表現=ポスターにはふさわしくない。だからその証拠に、夫婦の宣言として、結婚式で神様の前で「死が二人を分かつまで」なんてことを宣言したりするわけです。

夫婦喧嘩は、さしあたりは、包容力にあふれたスタイルの範囲内にある表現と見なされます。しかし喧嘩が次第に頻繁になり、その強度が増すにつれて、スタイルはその表現の変化、不協和を包括できなくなってくる。そのときに「言ってはならない一言」が発せられる(笑)。それは二人のスタイルの破綻です。閾値を超える表現の発生です。夫婦のアレンジメントは離婚のアレンジメントに移行する。今のアレンジメントでは、もうこれ以上この旅を続けられないというときが来る。でもその決定的なものが来るまでは、このアレンジメントでやっていこうという力が働く。

宮田
ツリー型スタイルのような会社なり社会は、常に変化しているわけですよね。ただどこかで、ツリー型の装備ではもうやれないっていう限界がくるということですか。

古賀
限界が来ているにもかかわらず、ツリー型でいくという無理筋が維持されるのです。それが差異を押さえつける局面ではないかと思います。

宮田
なるほど。そろそろお時間のようです。今回は理論的な話が多くて、具体的なイメージに落とし込むことが難しいと思うところもありましたが、先端的なビジネスパーソンのモデルとかクラウドコンピューティングなどに通じるようにも思えました。離婚の話はなぜか妙にリアルでした。一見すると、日常とかけ離れたことを話しているように見えるドゥルーズも、今日の社会と対応しているのですね。次回、BOOKSTEADY  Lesson.1 『ドゥルーズレッスン 器官なき身体、欲望する機械について』では、さらに突っ込んだ議論を期待しています。それでは本日は、ありがとうございました。(おわり)

 

BOOKSTEADY Lesson.1 7/23「ドゥルーズレッスン 差異と反復、リトルネロの論理について」PART.1はこちら

●古賀徹先生のその他の記事はこちら

ドネルモ.func(2)「シミュラークルとしての安室奈美恵」講師:古賀徹 PART.1

ドネルモ版『RiP!Remix宣言』シンポジウム@KBCシネマPart.1

 

BOOKSTEADY Lesson.1  『ドゥルーズレッスン器官なき身体、欲望する機械について Part.1』の配信は、2月下旬を予定しております。どうぞお楽しみに!

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11/02/07 21:02 | コメント(0) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

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