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BOOKSTEADY Lesson.1 8/13「ドゥルーズレッスン器官なき身体、欲望する機械について」 PART.1


構成:森元里奈/坂脇由里絵
責任構成:宮田智史

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BOOKSTEADYは、古賀徹さんを囲んで、哲学・倫理・デザイン・アートなどの理論や実践について話す、少人数のレクチャー・シリーズです。

現代とのつながり(アクチュアリティ)の中で考えられた思考や理論をレクチャーし、世界や社会と自分との関係について新しい視点から見る方法をレッスンします。

さて、今回も前回に引き続き、20世紀フランスを代表する哲学者ジル・ドゥルーズの思想を九州大学芸術工学研究院准教授の古賀徹先生にレクチャーして頂きました。それでは、難解なドゥルーズの世界をシャープにときほぐす古賀先生の白熱講義の模様をどうぞご覧下さい!

【前回の模様】
BOOKSTEADY Lesson.1 7/13「ドゥルーズレッスン 差異と反復、リトルネロの論理について」PART.1

BOOKSTEADY Lesson.1 7/23「ドゥルーズレッスン 差異と反復、リトルネロの論理について」PART.2

 

はじめに

宮田
みなさん、こんばんは。BOOKSTEADY「Lesson.1ドゥルーズレッスン」の2回目の講義、「器官なき身体、欲望する機械について」にお越し下さいまして、ありがとうございます。前回に引き続き古賀徹さんにレクチャーして頂きます。それではよろしくお願いします。

 

運動する世界

古賀
こんばんは。今日は二回目の講義ですが、初めての方もいらっしゃるようなので、前回の復習から始めたいと思います。まずはドゥルーズの基本的な考え方について振り返ってみましょう。

理論や概念は、動いている世界を静止したあり方のうちで把握しようとします。ボールを高い場所から地面に落とすと運動が生じます。古典力学は、そうした運動現象を写真撮影して、時間あたりの運動距離を割り出し、そこから運動法則を抽出します。そうすることで、運動する世界のレイヤーの背後に、その<法則=真理>として静止したあり方を描き出すわけです。そこでは運動は非真理であり、その背後にある不動のものが真理である。

しかしドゥルーズは、そうした静止したあり方が真理だという考え方を避けようとします。世界は日々動いて変化していく。その生成変化するあり方を、その変動のさなかに捉えるものとして、彼は「スタイル=様式」という概念を提示したのです。ある領域(領土)の活動状況が変化するとしても、それでもなおそこに持続性を保つ一定の抽象的形式が成立する。それがスタイル(様式)であり、しかもなおスタイルはそれ自体として変化し(ここが「法則」とは違うところです)、つねに新しい領域のあり方を指し示す。そのスタイルは、特定の活動する身体といった「領土」の表現であるとともに、その抽象性によって、そこから別の領土の可能性を指し示しもする。これを「移行(パサージュ)」という。そしてこの移行を可能にする装備一式(地勢・状況)のことを「アレンジメント」という。したがってスタイルによる領土化は、すでにそれ自体として別の領土への移行、つまり脱領土化であり、領土それ自体がそうした移行のアレンジメントなのだ、というのが前回の話でした。

 

唇というスタイル

古賀
身体がこのようなスタイルへと転化する例として、唇について私なりに考えてみました。唇という器官は、腸、胃、食道、口腔の連続線上にある消化器系統の末端として、DNAのような生命のコードによって、その機能が規定されています。消化器系統を構成している連続的な粘膜が体表面の外側にめくれ上がっている。消化器官としての唇は、栄養摂取の局面である種のリズムを発揮します。物を噛む唇の動きはとてもリズミカルです。リズムとは二つの環境の境界に生じるものでした。外気と血液という二つの環境を媒介するものが呼吸であり、食物と消化器系のあいだに生まれるのが唇のリズムだと言えるでしょう。そこにはさらに顎(あご)と歯といった別の器官も関係している。そういう様々な器官と外的環境とがうまく調和するとき、唇のリズムが生まれる。

ところが唇には消化器以外のあり方もある。リズミカルに食事をしている女性が目の前にいると、その唇の動きに触発されて会話のリズムが弾んだりする。そのとき彼女の唇は、他者の唇との間でリズムを刻み始める。唇のリズムは消化機能を果たしている領土の表現であると同時に、コミュニケーションの領土の表現にもなる。唇のリズムは消化と会話という二つの領土の対位法を上演し始めるわけです。健康さを表す食事のリズムが会話のリズムを支え、弾む会話のリズムがさらに食欲を刺激するというしかたで、二つの領土の機能が唇のリズムにおいてクロスするのです。

このとき唇は、一つの器官(消化器官)にのみ拘束されたあり方から抜け出て、別の器官(会話の器官)へと生成変化しているといえます。食事と会話が盛り上がって、二人が親しくなると、それはさらに性愛の器官へと移行するかもしれません。食事のリズムが合わないと会話も盛り上がらないし、そうなると次もない・・・(笑) 唇はリズムとなって様々な領土を横断していく。そのとき唇それ自体が、そうした移行を可能とするスタイル(様式)になっている、ということができるでしょう。

 

 

 

ドゥルーズとは

ジル・ドゥルーズ(1925-1995)は20世紀フランスの哲学者・思想家。パリ第8大学ヴァンセンヌ校で教授を務める。スピノザ、ニーチェの強い思想的影響下で哲学史研究に従事する一方、1968年パリの5月革命に大きな影響を受け、精神分析家のフェリックス・ガタリと共著のかたちで独自の思想を展開する。1995年、病気を理由に自殺。主な著作は、1968年『差異と反復』、1972年『アンチ・オイディプス』(共著)、1980年『ミル・プラトー』(共著)、1991年『哲学とは何か』(共著)など。

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「分子的・モル的」とは

古賀
次に、分子的・モル的というドゥルーズの概念について説明しましょう。モルというのは化学の概念です。たとえば水素という一定の種類の分子をある特定の数(この数をアボガドロ数といいます)集めた1セットのことを1モルと呼びます。つまりモル的なありかたというのは、ある同質のものを膨大な数だけ集めたときに、ある性質が生じている状態を指していると考えられる。たとえば水素のモル的性質の一つは、火をつければ爆発するというものです。

これに対して分子的という言葉は、そういう集まりを構成している個別の要素を示唆しています。たとえば水素分子は1個だけでは化学反応するとしても爆発はしないですよね。つまり分子的なありかたは、モル的なあり方によって実現される性質を解除してしまうのです。

通常、我々は唇を一つのパーツとして見ています。それ以上分解できない単体・個体だと思っているわけです。しかしそれは、唇を構成している様々な要素に目を向けずに、それら要素の集合としての唇というモル的あり方に目を向けているに過ぎないのです。ドゥルーズは、個体として存在しているものを世界の基礎単位とみなす見方をこうしたしかたで崩していく。

 

分子的な分析

古賀
唇を分子的に見ていくと、それは粘膜とか筋肉とか色といった様々な要素からできていることがわかる。これは物理的な分解ですが、機能的な要素分析も可能です。たとえば粘膜は、唇が消化器であるか、会話の器官であるか、性愛の器官であるかに応じてその機能性を変化させます。粘膜の粘度にあわせて発声が可能となっています。だからその粘度が変化するとうまく発音できなくなる。消化器系の調子が悪いと口内炎ができたりして、それが発声にも影響してくるわけです。なぜかこれまでうまく会話できていたリズムが崩れて、どうも話が盛り上がらないということにもなる。するとそれは人間関係や性愛にも影響を与えるわけです。

唇の色もまた分子的に変動します。唇が消化器フィールドの表現になっているときには、その発色はあまり重要ではないでしょう。それは後景に退いている。ところがその色という表現が会話のフィールドに「移行」したとたんに、発色は前景化してくる。発色があまり良くないと、何となくその人の表情が冴えないように見えたり、会話も生き生き感が薄れるような印象を与える。性的な魅力も低下するでしょう。しかしそこに口紅を引くと状況が変わり、粘膜の色の変化が逆に会話や魅力を回復させ、それが食事の消化にも影響を与えたりします。女の人がデート中に口紅を直したりするのは、状況全体に対する分子的な介入なのです。

 

強度と多様体

古賀
粘膜の機能を分子的に見ていくと、これだけの微細な変化が起こっている。しかしモル的に見ると、そうした変化は見えなくなって、唇という単体としてのあり方が依然として維持されることになる。しかしそれでも、唇のあり方が全体として魅力的だとか、なにか調子が悪そうだとか、そうした価値の高低の変動を感じることはできるはずです。スタイルや表現が出力する、何となく魅力的だとか、元気そうだとかという全体的で感性的な価値を「強度」とドゥルーズは呼んでいます。モル的な強度の変化の背後には、知覚し得ない微細な分子的移行と変動がうごめいているというわけです。それに応じて、スタイルとしての唇のあり方もまた、消化や会話や性愛といった多様なフィールドの可能性に応じて、いわば七色に変化する。こうした個体のありかたは「多様体」とも呼ばれます。食事の時の魅力的な女性の唇は多様体なのです。

唇はそれはそれで、彼女の身体全体を形成する一つの部分要素です。つまりそうした部分要素が、今度は<彼女のスタイル>というものを構成していくんですね。彼女が魅力的に輝いている、つまり彼女自身の表現の強度が高まっているときには、彼女を構成している分子的なもののうごめきが全体としてうまく調和していてリズミカルである、ということができるでしょう。すみません私が男なので、女の人の例ばかりで・・どうしても強度があるものですから・・(笑)

こうした多様体としての唇に対して、自然科学、たとえば医学は、そのダイナミックな変化やその先に予感される他の環境の変動に魅惑されてもしかたがないわけです。むしろ伝統的な科学は、そうした多様体としての複雑な関係性を遮断して、個体に一つの意味、一つの機能を与え、その観点からのみ個体を考察しようとするわけです。消化器系の末端としての唇というものを医学は作り出していく。そしてそれこそが唇の真理であり、それ以外の唇のあり方は仮象であるという姿勢を取るのです。しかしドゥルーズはそう考えない。そうではなく、多様なしかたで機能や外部に開かれ、それに応じて変化していくあり方こそが真理だと、個体の実相なのだと言いたいのだと思います。そしてその真理としてのあり方にも価値的な差異がある。多様体の価値は強度によってのみ測られる。ホルマリン漬けで標本にしても、それは唇の真理ではなく、むしろその多様体としてのあり方、その強度を損なっていると考えるわけです。

 

 

 

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スタイルの形骸化

古賀
次にスタイルの形骸化について話したいと思います。前回の質疑の時にも話題となりましたが、スタイルが領土の機能的活動から自立して、逆に領土の活動の方がこのスタイルに拘束されてしまう局面です。それは今日の表題の「器官なき身体」や「欲望する機械」といった概念とも深く関係するものなのです。

前回の授業でもお話ししましたが、二人の人間の間に成立するスタイルは、二人の会話の内容や生活のありかたがある程度変化しても、それでもやっぱり二人のスタイルだよね、といったかたちで、ある種の普遍性を保持しています。ところがそのうち、そのスタイルが自立してしまって、逆にそれに合うような形で二人が振る舞い始める局面が生じるわけです。たとえば新婚の夫婦の食卓では、二人が食事をするときには、両者の間には自然なリズムが成立し、それが二人の生活のスタイルを形成していたとしましょう。だいたい7時頃から夕食がはじまる、とか。しかしいつしかそれが自立化して「我が家の晩ご飯は午後の7時から」という決まりになる。それを守るために、生活の自発的なリズムが逆に制約されていく。それはスタイルの形式化、マンネリ化ともいえる事態です。かつて自然なリズムであったはずのものが、二人を拘束するものになっていく。

 

器官に拘束された身体

古賀
スタイルがひとたび確立されてしまうと、そのスタイルに変更をもたらすのではなく、そのスタイルの範囲内に領土の活動を制限するような力が働く。唇が消化器としてのあり方に固定されるように、二人の関係は世間様から認められる立派な夫婦という枠の内に制約される。そうした制約の中にある領土のありかたをドゥルーズは「器官(オルガン)」と呼ぶのです。フランス語のオルガンには有機体という意味もあるのですが、様々な外部へと開かれた多様体のありかた、その有機性が有機体へと凝固してしまうのです。

その有機体は、完全に閉じられているわけではなく、他の環境との有機的な関係性をたしかに保持している。たとえば唇は消化器の末端ですが、消化器はそれだけで機能するわけではない。消化したものを栄養分として回収する循環器系との有機的な連携がないと、そもそも消化器として成立しないわけです。そして、何か食べるためにはあごを動かし、また食物のあるところに移動する必要がある。つまり筋肉系とも結び付いている。それらの様々の器官とリズミカルな連絡を取っていないと、器官は器官として機能しない。そしてそういう組み上げられた関係性は、仕事(生産)をし子どもを育てる(再生産)という、世間様に認められる夫婦の既定の人間関係の枠組みとも、同じく揺るぎない有機的関係を作り上げていく。その延長線上には、社会が、国家が、国際秩序が控えているのですが。

しかし逆に言えば、こうした有機連関においては、他の器官との連絡があまりにも密接でがっちりと組み上がっているので、それ以外のありかたの可能性が閉じられているとも言えるわけです。自己保存の器官として組み上げられているかぎりでは、唇が他者の唇と連絡を取ってコミュニケーションの器官になったり、性愛の器官へと転換することはあり得ない。また夫婦という関係が生産と再生産という有機性の枠にのみ固定されているかぎり、たとえば社会運動の要素として機能しはじめるということもあり得ない。

 

器官から逸脱する身体

古賀
しかし既定の器官連関としてのありかたから身体要素が逃れるとき、それはまったく違ったフィールドへと開かれるわけです。そういう転換する身体のイメージをドゥルーズは「器官なき身体 CsO」という用語で表現しようとした。消化器でも会話でも性愛でもなく、特定の器官としてのあり方から、何かもっと新しい身体のあり方を求めて、いつも逃れていくイメージです。ドゥルーズはそれを「ダンス」という言葉で表現してもいて、この思想はコンテンポラリー・ダンスに大きな影響を与えました。自分たちの身体を、通常の有機体としてのありかたとは違ったしかたで用いる。いつもの有機性とは異なったあり方で他者の身体と響かせる。従来の身体をまとめ上げ、そこに指令を下していたはずの<私>とか<私の精神>といったものも、器官なき身体においては、身体を統制する司令塔としてのあり方から解放されていく。自然や社会といった外部の諸要素と、従来の道具的なあり方とは異なった関係を模索していく。それこそがコンテンポラリー・ダンスだと考えるわけです。

器官なき身体においては、身体が従来の自分の役割から逃げ出そうとしている、もうその役割にうんざりしている、楽しくもなくスリルもなく、ワクワクもしないというわけです。ご飯を食べるばっかりの唇にはもう飽きた、そう考えて身体が器官を放棄するということですね。

 

 

 

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空虚な身体

古賀
身体が器官を単純に放棄すると、身体はその機能性を失います。そういう器官からのネガティブな脱出のあり方として、ドゥルーズはマゾヒズムや薬物中毒の身体を挙げています。人間の体に栄養を供給していく消化器としてのあり方を放棄すると、拒食症の身体が形成されるともいえるでしょう。栄養とは無関係に、食べては吐くことだけを反復する機械が新たに形成されるわけです。

食べて成長して会話して結ばれて家族を作っていくという、いわゆる健全なあり方として、社会的な器官がガッチリ構成されている。そういうのはもう嫌だとなれば、健全な人格統合や社会統合を拒絶するしかない。そのときに、自己の器官の機能性を停止したり、自己を攻撃したり破壊したりする衝動が発生します。そういう衝動をフロイトは「タナトス」と呼んでいます。現状の生の組織が拘束として意識されるがゆえに、身体は死へと向かう。そこには器官の有機性からたんに逃れる「空虚な身体」が生まれるとドゥルーズは言います。

食に事欠く時代には、社会も身体も食べることを目的として活動する。しかしその必要が満たされて、むしろ食べるための手段が拘束の様相を帯びてくると、社会全体が既存の栄養身体のありかたを拒絶して、空虚な身体が蔓延するようになる。みんな、この空虚をどうしていいか分からない。自傷行為と鬱が蔓延し、何か空しいし寂しい。体も心もボロボロ。そのときその空虚をシステマチックに充実してあげるよ、という補完機構が登場する。「こうやったら、こう考えたら君は生き生きするよ」と上から決めてくれるのです。それに従うとみんな途端に元気になっちゃう。たとえば消費資本主義やコミュニケーション資本主義、ある種の宗教や政治、サークル活動などがあるでしょう。既存のシステムの一部となることで、自分の身体を再編成するのです。そういうのをファシズム的身体と呼んでもいいのではないか。タナトスはファシズムに転化する。

 

器官なき充実身体

古賀
そこでドゥルーズは、器官から離脱するとしても空虚には向かわず、依然として充実を保てるような身体のありかたを提案するのです。それを、タナトスの反対の言葉を用いて、エロス的な身体と呼んだ。ここでエロスは解放された生のことを指しているわけです。ではそんな素敵な身体になるにはどうすればいいのか。

じつはその問いには原理的に答えが示せないのです。新しい器官のありかたは、その器官の外側から特定の機能や意味を与えることによっては達成されない。つまり空虚な身体に対して、「あなたはこうしなさい」「器官をこのように組織しなさい」というかたちで示すことはできない。なぜならそれをすれば、ファシズム的な身体、つまり別の有機性の強制的な割り当てになってしまうからです。

反復と離脱のさなかにあって、従来の器官から移行しうるような新たな接続の可能性を、身体が自分でそのつどの場面において見いだしていくしかないのです。延々と唇を消化器として用いてきた人が、その反復のさなかにあって、アレンジメントの変化の可能性を察知し、それを組み替える、その移行の途上にある身体のあり方こそが、器官なき充実身体なのです。

遊牧民が砂漠で旅をするあり方を例にして説明しましょう。砂漠を横断するときアメリカ軍ならGPS機能を用いるでしょう。上空の衛星の目線から、緯度と経度で現在地と目的地を確認し、直線的に最短距離で移動する。ところが遊牧民は、衛星から自分を見る代わりに、自分の方から星を見上げる。それで方角を把握し、地形、風向き、オアシスの予感、ラクダの疲れ具合、牧草地の予感、どのくらい自分たちが歩いてきたか、砂漠の空気、そういったものを読んで、そのつど「こっちの方へはこのぐらい行けるだろう」とか、「今はこちらに向かうべき」みたいなのを、その場その場において手探りで探って行く。上空飛翔的にではなく、上空と地面との媒介の中で、方向を身体的に決めていく。旅行の途上において、移行のアレンジメントがそのつど組み変わっていくわけです。その道行きは直線的な方向をとらない。

そういうしかたで、他者との繋がりや他者の器官との繋がり方をそのつど見出していく。例として適切かどうか分からないのですが、サッカーは結構これに近いのではないでしょうか。ボールをセンターに上げる人の足の動きとヘディングする人の頭部が、ある瞬間に完全に同期する。それは身体をコントロールする意識どうしの関係ではなくて、むしろそこをバイパスし、身体の器官と器官がつながって、足と頭の間に新しい身体の機械が瞬間的に成立するわけです。接続の可能性は前々から計画されているのではない。次の瞬間にはその可能性はもう永遠に失われている。相手の動きとか、その時の疲れ具合とか、いま後半何分だからとか、何点差だとか、さまざまな条件が重なって、このラインでいけるっていうのが瞬間的に浮き立ってくる。それをぱっと掴んで、それを摑むことで、新しいアレンジメント(フォーメーション)へと移行する。そういうありかたですね。

その可能性は、ある種の感覚的な強度として、状況とそのリズムの内部において見出されていく。上空や外側から見いだされるのではない。既存の器官をたんに抽象的に否定して、液状化して「空虚な身体」や「陰惨な身体」の方向に行くのではなく、強度と方向性を探る身体は充実していて、快活で恍惚で、舞踏に満ちているのですね。

 

参加者Aさん(30代女性)
器官としてのありかたを身体が拒否するという説明がよく理解できませんでした。なぜそうなるのですか?

古賀
多分きっかけがあると思うのです。たとえば拒食症に陥るきっかけのようなものです。もしくは、自分の精神と人生を麻痺させたいと思って、アルコール中毒になるきっかけ。なぜそうしたところに身体が追い詰められていくのかという話は後半にしたいと思います。

宮田
それでは前半はここまでにして、休憩後もう少し詳しくお話してもらえればと思います。

(PART.1はおわり)

 

次回の配信をお待ち下さい!!

 

 

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11/03/04 01:10 | コメント(0) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

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