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【新春企画】「わたしの2011年たち」 〜山内泰さんのばあい〜


テキスト:山内泰
構成:宮田智史

新春企画「わたしの2011年たち」

ドネルモHP新春企画「わたしの2011年たち」と題しました本連載特集は、ドネルモのスタッフやゆかりのある方々に2011年を振り返ってもらおうというものです。

第6回目は、ドネルモ代表の山内泰さんの「わたしの2011年」です!今回、山内さんは2011年に放送され話題となったフジテレビのドラマ『それでも、生きていく』について紹介下さっています。それではご一読下さい☆

それでも、生きていく

2011年後半期、もっとも感銘を受けたのは、フジテレビのドラマ『それでも、生きていく』だった。タイトルがその内容をこの上なく説明している、紛うこと無き傑作である。

同級生の少年に妹を殺された兄・深見洋貴(瑛太)とその犯人の妹・遠山双葉(満島ひかり)、そして両者の家族をめぐるドラマ。話の筋は註に譲るとして、まず特筆すべきは、このドラマのテーマだ。

96年に事件が起きた設定に明らかなように、ここでは酒鬼薔薇事件(97年)が念頭に置かれている。恐らく10年前にこのテーマのドラマをやるとしたら、「なぜ少年は殺人を犯したか」といった謎解きが中心になっただろう。そして社会背景や少年のトラウマなど、それっぽい要因が探られただろう。

だが『それでも、生きていく』にそうした謎解き要素は希薄だ。このドラマは96年から15年後の2011年の話である。そこでのテーマは、相互に理解し許しあうことの難しい人々がどう関係をとっていくのか、そこに特化されている。

そのためドラマでは、互いに理解し得ない人々が偶然にも出会ってしまう状況が、何度も設定されている。それをご都合主義の物語とする批判もあるが、的外れだろう。このドラマが問題とする人の関係性の機微は、物語を通じて理解できることではなく、もっぱら俳優の所作のうちに、静かに雄弁に語られることなのだから。

そうしたドラマの要請に応える俳優陣が素晴らしい。大竹しのぶをはじめとするベテランもさることながら、瑛太と満島ひかりのふたりに尽きる。瑛太はまさに役そのものの人生を負っているようであるし、満島ひかりは、「本来は天真爛漫で楽天家なのに、兄のことがあったために、ジョイフルであることを自らに禁じている妹」という役を完璧にこなしている。

 

それでも、生きていく 

2011年7月7日から9月15日まで、フジテレビ系列で、毎週木曜日の22:00-22:54に、『木曜劇場』枠で放映されたテレビドラマ。完全オリジナルストーリーで脚本の坂元裕二(東京ラブストーリーとかの人)による書き下ろし作品。主演は瑛太、満島ひかり。被害者家族の親を柄本明、大竹しのぶ。加害者家族の親を時任三郎、風吹ジュン。

■あらすじ
1996年夏、深見洋貴の妹・亜季が洋貴の友人である少年Aこと三崎文哉によって殺害された。この事件によって深見家は家庭崩壊し、洋貴は父とともに釣り船屋で働いて過ごしていた。一方、少年Aの家族は密告者からの嫌がらせをいたるところで受け、そのたびに引っ越しを繰り返していた。父親は子供のために母と離婚し、子供に母親の姓を名乗らせるなど対応していた。そして、2011年夏。洋貴の前に一人の女性が現れる。その女性こそ、少年Aの妹、双葉だった。双葉のことを知らなかった洋貴は初め、「自殺志願者」と感じ、自分の境遇・殺害された妹のことを話そうとするのだが…。

すべてウィキペディアから。 

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瑛太と満島ひかりのふたりのシーンでは、時として過剰なまでにぎこちなさが演出されている。そうしたぎこちなさの中から、微かに培われていく関係性が、俳優の表情や所作に、極めて複雑な感情を伴いながら、浸透していく。単純ではない感情が、単純ではない表情に反映される。そのあたりの表現力がただごとでない。

ネタバレになるが、ふたりは最後まで理解しあうことがない。「加害者の妹」という点に拘泥し、自己犠牲的に振舞う双葉(満島ひかり)を、遠山(瑛太)はどうすることもできない。でも、それが不幸で悲劇かというと、案外そうでもないのだ。

そこに光を投げかけているのは、どうにもできない状況に対して、自分を支えるために、他者に投げかけられる想像力である。ラストでのお互いに届かない手紙のやりとりが象徴するように、このドラマはそんな想像力に満ちている。

キャスティングについて

キャスティングはもう、ほとんど神技なのだが、酒井若菜についても言及しておきたい。90年代後半のオーラをまとった彼女は、まさに90年代的セカイ系として、犯罪を犯した文哉(双葉の兄)に寄り添い、受け入れようとする。が、それがまったく救済にならなかったという点でも、ただしくゼロ年代を総括している。恐るべし。

 

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SNSなどで誰とでも容易くコミュニケーションできる一方で、絶えず誰かとつながっていないと不安でしかたない人が量産されている。そんな今日の「つながりの社会性」の中で見落とされがちなのは、このドラマが訴えるロマンティックな、したがってひとりよがりな想像力なのだと思う。

事実としてつながっているかどうかではなく、自分たちはつながっていると信じる力。それは、自分だけの妄想であって、他者と共有も原理的に不可能だろう(この妄想を他者と共有しようとすると、宗教的な問題を帯びることになる)。ただそうした妄想を基盤として、「それでも、生きていく」ことができるのだとしたら、はたしてどうだろうか。これからの人と人のつながりを考えていく上で、このドラマの提示する問題の射程は広い。

 

「それでも、生きていく」の難点

絶賛したけれど、ただひとつ難点があって、音楽がよくない。メインテーマっぽく流れていたのはラフマニノフのピアノ協奏曲第2番第2楽章なのだけれど、これはドラマのテーマと1ミリも関係していない。テーマに呼応した、ストラヴィンスキーの2台のピアノのためのソナタ第2楽章のような曲を使ってほしかった。

 

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著者紹介

山内泰(ドネルモ代表)

本レビューで取り上げた「それでも、生きていく」のほか、2011年に感銘を受けたコンテンツとして、フィクションでは辻村深月『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』、ノンフィクションでは大野更紗『困ってる人』、アートではルー・ヤンのアジア美術館レジデンス展(カロンズネットにレビュー掲載予定)、エンタメ全般ではAKB48(西日本新聞の土曜エッセイに寄稿)、アニメではやはり『まどか☆マギカ』、J-popではやくしまるえつこ&メトロオーケストラ『少年よ我に帰れ』、クラシックではラトル指揮ベルリン・フィルのソウル公演でのマーラー9番、など。

山内泰さんじゃない人の2011年たち

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12/01/06 18:24 | コメント(0) | トラックバック(0) このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーのはてなブックマーク数 Buzzurlへ追加このエントリーのBuzzurlブックマーク数 livedoorクリップへ追加このエントリーのlivedoorクリップ数 Yahoo!ブックマークへ追加人が登録 POOKMARK Airlinesへ追加 Saafへ追加 ニフティクリップへ追加 add to del.icio.us add to Digg add to Reddit

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